金石下本町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活した年】平成30年(2018年)
【現在の町名】金石下本町(復活までは金石西三丁目、金石西四丁目)
【感想・雑記】はてなダイアリーのサービス終了に伴いリニューアルオープンです。本日がこのブログ開設7年目の記念すべき日でございます。引き続きご愛顧のほどよろしくおねがいいたします。

さてさて、今回が2019年最初の投稿です。読者のみなさまの興奮もすっかり冷めちゃったかもしれない旧町名復活ですが、そんな金石下本町(かないわしもほんまち)のご紹介です。金沢市金石地区は、金沢市の中心から約5キロほど離れた郊外にある小さな港町です。金石は、「かねいし」ではなく「かないわ」と読みます。かつては宮腰(みやのこし)とよばれていました。昭和18年(1943年)に金沢市になりましたが、それまでは石川県石川郡金石町という別の市町村でした。

隣町の大野町とはよくも悪くもライバル関係にあります。慶応2年(1866年)に宮腰町と大野町の合併話が出たときに、固く結ばれた友情を意味する「金石(きんせき)の交わり」から金石町と付けられましたが、すぐに合併は解消されてしまい、かつての宮腰町だけを称して金石町とよぶようになったとさ。

以上が金石町の簡単なご紹介です。下本町は、江戸期から続く古い町で、本町の下に連なり店屋も多く賑わった町だということですが、金石町が金沢市に併合されたときに、「金石下本町」と名前を変えて残っていましたが、ついに昭和43年(1968年)に消滅してしまいました。ところがです!ご存知のとおり、昨年の11月、見事な復活をとげました。当然ながらカムバック賞も満場一致で決まったそうです。

今回撮られた写真は、ご覧になると分かるように往年のものではなく、復活後の写真です。怪物と呼ばれたかつての面影はありませんが、放つオーラは格のちがいを感じさせます。今シーズンは開幕前から右肩のアクシデントに見舞われて心配ではありますが、がんばって活躍してくれると信じています!

最後のほうは、金石下本町とまったく関係のない話しになった気がしないでもないですが、まあお気になさらず。ところで、下本町の旧町名標柱の隣には「銭屋五兵衛旧宅跡」の標柱も並んでいます。この銭屋五兵衛という人物、金石、いや金沢の歴史を語るのに忘れてはならない方なのであります。今回は、ここで時間切れとなりましたので、また近く、別の機会に銭屋五兵衛さんについてはお話しさしあげたいと思います。以上、ご静聴ありがとうございました。まだまだ連載は続くよん。

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金石下本町の標柱と並び立つ「銭屋五兵衛旧宅跡」の碑(上)
銭屋五兵衛のお墓のある本龍寺(下)
[発見日:平成30年11月3日]

金石通町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活した年】平成30年(2018年)
【現在の町名】3日前から金石通町(それまでは金石西三丁目、金石西四丁目)
【感想・雑記】平成最後の平成30年11月1日、ついに9年ぶりに旧町名が復活しました!!しかも金石通町、金石下本町、金石味噌屋町の3町同時。今回ご紹介するのはそのうちのひとつ、「金石通町(かないわとおりまち)」です。したがって、今回ご紹介するのは、正確には旧町名ではなく、生まれたてほやほやの新町名となります。そして昨日11月3日、平成最後の文化の日に、金石通町にある宮腰緑地にて、「旧」の文字を埋めた旧町名標柱の除幕式が開催されるということで、ひさびさに実家帰って見に行ってまいりました。

わたくしのふるさと金石町。金石通町は、町のメインストリートといっても過言ではないでしょう。昭和18年(1943年)の金沢市編入前、石川郡金石町だった時代の金石町役場は、この金石通町(当時は金石町字通町)にありました。また、金石通町には通町商店街があります。小学生のとき、先生が「かないわ銀座」とよんでかるく小馬鹿にしてましたが、地方商店街の宿命か、衰退ぶりは想像以上です。当時かよった本屋も文具屋もおもちゃ屋もなくなってしまいました。なお、江戸時代には上通町と下通町にわかれていて大店もあり、人の往来も多く、大変にぎわった町だったとか。
ちなみに、かつての金石町役場は、金沢市役所の支所、金石市民センターおよび金石町公民館となっており、現在も町の中心施設であります。旧町名の復活記念式典ももちろんここで開催されましたよ。

ところで、今回ご紹介したのはかつての旧町名当時のものかどうかの判別が難しい「デンデン系」の電柱番号札です。5年前に見つけたこの番号札のあたりを、本日あらためてくまなく探してみましたが、当時の表札を掲げるお宅はおろか、デンリョク系の電柱番号札は全く見つかりません。NTTロゴの「通町」電池番号札はたくさん見つかります。しかしながら、ご紹介した電電公社のロゴが書かれた手書き風の番号札も見つかりませんでした。すでにおそらく全て撤去されてしまったのでしょう。したがってもう見ることができない電電公社ロゴ入りの手書き風「通町」番号札である、という希少価値をアピールしつつ、旧町名復活のお祝いの言葉にかえさせていただきます。本当におめでとうございました!

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宮腰緑地・除幕式の様子(上)
「旧」の文字が埋まった標柱(中)
金石市民センター(旧金石町役場)(下)
[発見日:平成25年9月29日]

石屋小路

f:id:cho0808:20161203112842j:plain:left:h400【消滅した年】昭和45年(1970年)
【現在の町名】武蔵町
【感想・雑記】武蔵スタジオ通り。演出の街だから武蔵スタジオ通りらしいのですが、意味はよくわかりません。昔このあたりにライブスタジオがあったのが由来との説があるようです(出典:N氏のぶらり散歩日記、トリップアドバイザーなど)。そもそも武蔵スタジオ通りと呼ばれるようになったのはいつ頃でしょうか。わりと最近な気もするのですが、なぜか由来がわからない。。。

さて、今回ご紹介する石屋小路(いしやしょうじ)は、まさにこの武蔵スタジオ通りの町ということです。場所は金沢の繁華街、武蔵ヶ辻にある「めいてつ・エムザ」というデパート脇の小路です。「武蔵スタジオ通り」と大きくモニュメントに書いてあるのですぐにわかりますよ。江戸初期、この小路に藩の名高い石工が住んでいたのが由来だそうです。江戸時代の地図にも「石屋小路」の名前が見られるのですが、意外にも正式な町名となったのは明治4年(1871年)なのだそうです。それまでは安江町横町という町名だったのですが、通り名称がそのまま町名に採用されたといったところでしょうか。それにしても、つい最近誕生した武蔵スタジオ通りの由来がはっきりしないのとは対照的ですよね。

ところで、金沢の二大老舗百貨店(?)「めいてつ・エムザ」の正式名称は、「金沢名鉄丸越百貨店」です。昔から丸越(名鉄丸越)とよばれて親しまれてきましたが、平成14年(2002年)の、隣接するスカイビルと一体化する大規模改装とともに、現在の「めいてつ・エムザ」の愛称がつけられました。
金沢名鉄丸越百貨店は、昭和5年(1930年)、製茶業を営んでいた実業家(のち政治家)の林屋亀次郎さんが建設したビルに誘致した三越金沢店がはじまりだそうですが、わずか5年ほどで撤退し、跡地に「丸越百貨店」を開業したそうです。ちなみに場所は現在地でなく、武蔵ヶ辻交差点の対面の「かなざわはこまち」のある場所に建っていたらしいです。ダイエーのあったとこ、といったほうが地元のみなさんにはよく分かるかもしれませんね。

では、現在のエムザの場所には何があったのでしょうか。実は、ここには「住吉市場」とよばれた青果市場がありました。わたしの親世代の方ならごぞんじなのかなー。ここ数年、海鮮丼を求める観光客でごったがえす「近江町市場」は昔からの魚市場ですが、その向かいに大きな青果市場があったということです。
その後、大規模再開発事業とともに、住吉市場が現在の中央卸売市場(西念町)に移り、昭和48年(1973年)にはスカイビルが建設されて、そのとなりに丸越百貨店が移転して名鉄丸越百貨店となり、めいてつ・エムザとなって現在に至ります。ちなみに、エムザの3階テラスに出て螺旋階段を登ったところには、今も武蔵住吉神社が鎮座しているのですが、、、金沢市民でもごぞんじない方が多いのではないでしょうか。なお、住吉市場の住民の方たちは住吉町と通称し、石屋小路と住吉町の両方の表札を掲げるお宅もあったとかなかったとか。(出典:『金沢百年町名を辿る』読売新聞金沢局(1990))

最後に、とても残念なお知らせです。今回ご紹介した「金澤市石屋小路」の旧町名表札と古いお宅ですが、たび重なる再開発を乗り越えて平成30年の今日まで残り続けてきたのですが、最近取り壊されて、コインパーキングに生まれ変わってしまいました。。。

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武蔵スタジオ通り(かつての石屋小路)(上)
住吉市場跡地の標柱(中)
めいてつ・エムザ4階に鎮座まします武蔵住吉神社(下)
[参考文献:『金沢百年町名を辿る』読売新聞金沢局(1990)、『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、ウィキペディア、N氏のぶらり散歩日記、トリップアドバイザー]
[発見日:平成28年12月3日]

岩根町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目
【感想・雑記】この週末、金沢では百万石まつりが開催されました。今年の百万石パレードはお天気にも恵まれてたいへんなにぎわいでした。羽田美智子さんのお松の方も、高橋克典さんの利家公も、ミーハーながら、きれいだなあカッコイイなあと思いながら拝見した次第でございます。
ところでわたくし、先週の金曜(6/1)は早く帰ることができたので、加賀友禅灯籠流しも見物することができました!加賀友禅灯籠流しは、友禅流しで有名な浅野川に灯籠を浮かべて、友禅職人の供養と友禅の発展を願う行事だそうです。今年は、半数もの灯籠が燃えてしまうという事件が発生したのでご存知のかたも多いかもしれません。
そういうわけで、いつもの無理やりなこじつけに従いまして、本日は、金沢を代表する川、浅野川沿いの町ということで岩根町(いわねまち)をとりあげたいと思っております。

岩根町は、灯籠流しの会場から少し離れていますが、彦三大橋と昌永橋・中島大橋との間にあった川沿いの町です。昭和40年の住居表示実施により、瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目の一部となりました。町名の由来は、江戸初期、越前の牢人(浪人)で馬術の名人であった岩根十蔵がこの地に馬場を開いたことによるもので、岩根馬場と呼ばれました。そののち馬場は、川の対岸、現在の馬場小学校近くにあった関助馬場に移りますが、岩根馬場の跡地が町地となり、江戸中期ごろには、岩根町といわれるようになったとのことです。江戸時代の岩根町は、もともと川岸の10数軒だけの小さな町でしたが、明治5年(1872年)に、おとなりの勘解由町(かげゆまち)や亀淵町(がめぶちまち)などと合併して、戸数60軒ほどの大きな(新)岩根町になりました。なお、当時の町の規模としては勘解由町のほうが大きかったそうなので、ひょっとしたら、今回ご紹介する町が勘解由町になってたかもしれません。これを見つけたのも元は勘解由町だった場所ですし。これもまた運命のいたずら、ですよね。そして、いつの時代も、町は生まれそして消えてゆくものなのでしょう。それにしても、元々の岩根町と勘解由町とで、町の雰囲気、というか気どっていえば表情?みたいなのが全然違うから面白いですよねー。これぞ、さがす会活動の醍醐味であります。

なお、勘解由町の由来は、加賀藩士であった森川勘解由のお屋敷があったことによるものだそうで、勘解由殿町(かげどんまち)などとよばれたとのことでした。詳しくは、「市民が見つける金沢再発見の会」武野さんのすばらしいブログをご覧ください。とても勉強になる記事が盛りだくさんですよ!

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浅野川加賀友禅灯籠流し(上)
江戸時代からの岩根町(…で今は瓢箪町)(中)
江戸時代は勘解由町だった岩根町(…で今は瓢箪町)(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成24年7月23日]

西堀川町

f:id:cho0808:20120303144838j:plain:left:h350【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】堀川町
【感想・雑記】此花校下の旧町名は、なんと平成25年(2013年)1月25日以来、5年半ぶりということです。そんな此花人待望の旧町名のわりには、現在の町名である「堀川町」に方角がくっついただけの、一見行政的無機質な印象もイナメナイ「西堀川町」のご紹介となります。しかも、スマホの地図アプリによれば、西堀川町は、鉄道の高架下に成仏しきれずに幽霊のごとく存在しているようなのです。

実は、金沢駅の高架下にはなぜか幽霊町名たちがたくさん眠っているのです。ウソだとお思いなら地図アプリで金沢駅周辺を確認してごらんなさい。ほうら、西堀川町のほかにも、日吉町、広岡町、折違町、柳町、梅沢町などなど、消滅したはずの町名がいくつも見つかるではありませんか。もちろん、いずれも住民はゼロです。それにしても、これらの幽霊町名たち、なぜ線路下にこんなにも残っているのでしょう。住居表示の際になにか手ちがいがあったりしたのでしょうか?オバケ嫌いのわたしとしては、生き返らせてあげるか、それが叶わぬならば、ひと思いに成仏させてあげたいと願わずにはいられません。
なお、かつての西堀川町は通りを中心に、背割り(町の境界が家の背中)になった典型的な両側町でしたが、いまは堀川町の一角となりました。ただ、その延長線上に1本だけ「西堀川」と書かれた電柱が、これまたなぜか残されておりましたとさ。

…と、ここまで書いたあと、念のため、図書館で最新の住宅地図を確認したところ、高架下に眠っているのは、「西堀川町」ではなく「淵上町」との記載が見つかりました。はたして何が正解なのでしょうか。まあ現れたり消えたり、そのへんも幽霊らしくていいんじゃないでしょうか。ま、そゆことで一応、西堀川町は、旧町名ってことでいいんですかね?いいですよね?そのへんで手を打ちましょう。ちなみに図書館の帰り道、久々に西堀川町を再訪したところ、この西堀川町の表札は残念ながら消滅しておりました。。。なむー。

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鉄道高架下の西堀川町(本当は淵上町?)(上)
西堀川町の通り(中)
電柱の「西堀川」の文字と奥に見える高架橋(下)
[参考文献:『金沢市住宅明細図 地籍版中央部 平成30年版中』刊広社(2018)]
[発見日:平成24年3月3日]

中牧町

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】森山一丁目、森山二丁目
【感想・雑記】中牧町は、森山校下の旧町名です。「なかまきまち」でなく「なかまきちょう」らしいです。そしてお察しのとおり、上牧町と下牧町も存在します。現在の森山一丁目と二丁目を隔てる森山のメインストリート、森山町小学校に続く通りにありました。テレ金ちゃん、誉のドコ行く情報によれば、この通り、かつては中牧町商店街と言われたそうですが、いまは森山中央商店街と名前を変えています。ちなみに商店街には、以前にご紹介したかき氷「タイとと」が食べられる松永松味堂さんがありますが、ちょうど森山町二番丁との境界付近あたりです。はたしてどちらの町なのでしょうか。

森山一丁目のあたりは、かつて「大衆免(だいじゅめ)」とよばれた地区です。中牧町も、一時期、大衆免中牧町だったらしいですが、一時期とはいつ頃でしょうか、よく分かりませんでした。また、中牧町の由来を調べようと金沢市のホームページを見ましたが、「大衆免」の由来しか書いてありませんでした。金沢市職員の方、われわれが知りたいのは「中牧町」の由来のほうですよ。なお「大衆免」の由来につきましては、かつてご紹介した大衆免中通をご覧ください。

さて、今回ご紹介の中牧町ですが、なんと102soさんのご本家、旧町名をさがす会にてご紹介済みだったのです!観光地じゃないこの中牧町を見つけるなんてすごいです!てか、さがそうとすること自体がすごい!これが102soさんの"嗅覚"なのでしょうか?ちなみに今回、写真が横向きなのは実物がほんとに横向きだからです。102soさんは縦に補正してくれてありますが、わたくしは実物どおり横向きで掲載します。実は、以前に別バージョンの中牧町も発見してたのですが、写真におさめる前になくなってしまいました。

最後に、中牧町内にある浄光寺さんについてお話しします。浄光寺さんは、浄土真宗のお寺で、元和4年(1618年)に創建され、延享3年(1746年)に現在地に移ったそうです。以前、青島広志さんのコンサートや「おてらくご」でおじゃまさせていただきました。ほかにも「オテラート(お寺+アート)」などのさまざまな活動に積極的に取り組んでおられるお寺です。ちなみに、おてらくごは、お寺で法話をききながら、落語がタダで見られるというとてもよいイベントです。5月の金沢の定番イベントになりつつあるような気がします。今年も盛況のうちに終わったみたいですね。今年は残念ながらチャンスを逃して行けませんでした。。。

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森山中央商店街(かつての中牧町商店街)(上)
建替中の森山町小学校(森山町二番丁付近)(中)
真宗大谷派・龍向山浄光寺(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)、テレビ金沢ホームページ、『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)]
[発見日:平成24年3月3日]

大工町

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】片町一丁目、大工町
【感想・雑記】姉さん、事件です!消滅しているわけではないのに、「旧大工町」と書かれた歴史のまちしるべ標柱が見つかりました!「歴史のまちしるべ標柱」とは、昭和38年(1963年)以降の住居表示により大量に消えてしまった金沢の旧町名を後世に継承するため、昭和54年度より金沢市により設置された、いわば旧町名のお墓です。
ということはつまり、まだご存命の町にお墓が作られ、金沢市ホームページの旧町名一覧にも、「旧大工町」と書かれて、すでに亡き者が如く扱われているということです!例えるならば、引退していない現役スポーツ選手に向かって、あの人は選手なのですか?と言い放ってしまうようなものなのです!!…と、強く憤りを見せているかの如くですが、金沢市に旧町名とのお墨付きをいただいているおかげで、この日記でも後ろめたさを感じることなく、堂々と大工町をご紹介できているわけですので、なんとなく感謝もしているわけです。少々取り乱してしまい、申し訳ございません!

大工町(だいくまち)は、金沢の繁華街、片町の裏通りに現存する町名です。とはいえ、もとは通りをはさんだ両側とも同じ町の典型的な両側町でしたが、昭和41年(1966年)、住居表示実施により、通りの片側が片町一丁目となってしまい、もう片側だけがかろうじて大工町として残ることになりました。なお、残った片側の一帯は「金沢の牛込地区」と勝手によんでいる、旧市街で数少ない住居表示未実施地区にあたります。町名の由来は、藩の大工衆が住んだことによるもので、城下町にはわりとありがちな町名かと思われます。

さて、町の半分が消滅した大工町ですが、今回ご紹介する写真は、片町一丁目になってしまった側で発見したものです。だから堂々と旧町名と言ってしまってもいいのです。
ところで、このうぐいすもちみたいな町名表示板、実は過去にも宝船路町上伝馬町で見つけたものと同じです。なぜかいずれも長町校下でのみ見つかるこの町名表示板、一体なにもの?「青産研」という謎の組織?はなんなんでしょう?そのうち調査してみたいと思います。以上、あくまで旧町名の大工町からお伝えしました。

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「旧大工町」のまちしるべ標柱(上)
大工町と片町に分断された旧大工町の筋(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ]
[発見日:平成24年夏ごろ?(写真は平成28年1月31日)]