田丸町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】本町一丁目、本町二丁目、昭和町
【感想・雑記】電柱3連チャンですが、今回のものは、全米震撼・・・は大げさにしても、全沢が震撼、いや、半沢くらいが震撼するような衝撃作death!おしまいじゃないdeath!
過去にご紹介したスチール製電柱番号札を見ていただくと分かるあの独自のフォント、我々さがす会金沢支部がホクデン体と勝手に名付けた例の書体とは、今回明らかに異なるヘタウマ手書き調のフォントであるところとか、丁寧に◯◯線まで明記されてるところなど、従来のものとは異なるかんじです。そしてそして。なんといっても一目で気づく強烈な違和感。そうなんです!「町」の字が、江戸や明治時代の古地図などで見かける、田と丁を縦並びに書く異体字になっているのです!番号札の製造年である昭和39年にはもう「町」の異体字は常用してないはず。だからこそ、これはきっと電柱番号札職人さんがこだわりぬいた至高の一品ではないかと思われます。本当にレアだからさ、電柱番号札による紹介になってもいいよね?いいよ・・・ね?

田丸町の読み方は「たまるまち」です。由来は藩政初期に田丸兵庫という加賀藩士が住んでいたところだそうです。田丸兵庫はのちに加賀藩支藩大聖寺藩に仕えたため、邸宅のあったあたりが田丸兵庫上ノ地町と呼ばれ、のちに略して田丸町と呼ばれるようになったそうです。ついでに田丸兵庫さんについて、もうちょっと調べてみましたが、結局よく分かりませんでした。三重県にあった田丸城主の田丸氏、田丸直昌の嫡男、直茂との情報も一部でございますが、出所は不明でした。

田丸町の場所は金沢駅前、旧町名の標柱は白髭神社の境内にあるので、ちょうど神社のあたりが田丸兵庫さんの邸宅付近だったのでしょう。白髭神社といえば、猿田彦命主祭神とするお寺で、琵琶湖中の大鳥居で有名な総本山が有名ですが、金沢の白髭神社素戔嗚尊主祭神としているのでちょっと別系統なのかな?
ところで、いわゆる神仏習合思想により白髭神社別当寺、つまり神社を管理するお寺として建立されたのが持明院です。神宮寺町にある蓮寺で有名なお寺ですね。なかでも天然記念物の妙連は、滋賀と金沢にしか生息しないという貴重な蓮で、毎年夏になると限定公開されています。ちなみに「別当寺」も「神宮寺」も同じく神仏習合思想にもとづいて、神社に付属して建てられたお寺のことをさす言葉なので、持明院神宮寺町の町名の由来に関係してるかと思いきや・・・ちがうっぽい。しかも由来も紹介済みっぽい。

そしてもうひとつ、田丸町といえば、旧町内にある大きなお寺が専光寺です。お寺の付近はかつて専光寺前という別の町だったそうですが、明治5年(1872年)に田丸町に編入しました。専光寺は浄土真宗のお寺で、加賀一向一揆で大きな勢力となったお寺とのこと。かつては石川郡吉藤村にあり、吉藤専光寺とも通称されているそうです。ん?吉藤村ってどこ?そんな村あったっけ?と言ってるそこのあなた、金沢市民のみなさまならよくごぞんじ、健民海浜プールのある専光寺町のあたりがかつての吉藤村です。そう。もうお分かりですね。吉藤村は専光寺があったためにのちに専光寺村と呼ばれるようになり、さらに専光寺町になったわけなのです。なお、専光寺町にある吉藤神社の名に、かつて吉藤村だった名残をとどめております。でもって、専光寺といえば「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」で石川県民にはおなじみの加賀千代女のお墓があるお寺としても有名です。
以上、神社、寺、神宮寺、寺、神社と、激レアさんの電柱番号札のご紹介を忘れるくらいに、神仏ぐるぐる習合しまくりな回になりました。ではではまた。

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神宮寺にある白髭山持明院(上)
旧田丸町にある護方山専光寺(中)
専光寺町にある吉藤神社(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、石川県神社庁HP、ウィキペディアなど]
[発見日:平成24年10月27日]

木揚場

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】元菊町
【感想・雑記】金沢のデンリョク、電柱番号札でのご紹介が続いてしまい申し訳ありません。しかも若干読みづらいときてる。。。えーっと、今回ご紹介するのは「木揚場」です。「きあげば」と読みます。場所は六枚町交差点から金石方面に向かう金石街道の側道、かつて「古道」と呼ばれた道の途中の脇道を入ったあたりです。電柱番号札にも「木揚場分」とあるように、電柱の幹線(本線)からそれた脇道の分線(支線)になっています。とはいえ、昭和34年と書いてあるようにスチール製番号札のなかではけっこう古いやつなので、どうぞ笑って許してね。

木揚場の町名の由来ですが、読んで字のごとし、木を揚げる場所、です。かつては三社揚場とも呼ばれたそうです。江戸時代から続いた由緒ある町名ですが、昭和41年に消滅してしまいました。
江戸時代、築城や城下の普請にも重要な物資であった木材を宮腰(現・金石)の港から木曳川(きびきがわ)をのぼって城下に運び、市中を廻る用水を使って運搬されました。なかでも大野庄用水は、大事な荷を運ぶ川ということで「御荷川=鬼川」と呼ばれたよという話は、以前にもご紹介しましたね。
木揚場の町域のすぐ近くには大野庄用水と鞍月用水の合流地点があり、ここから木曳川に流れていきます。この場所には「古道木揚場」と書かれた標柱が立っていました。おそらくこのあたりで運んできた木材を荷揚げしていたのでしょう。

金沢市が設置した案内板などによりますと、大野庄用水は、完成年不明ながら金沢で最も古い用水で、富永佐太郎という人によって完成したと伝えられています。犀川から取水し、長町武家屋敷の土塀沿いを流れ、木曳川から日本海に注ぐ総延長10.2kmの用水だそうですが、その大半は木曳川で、大野庄用水としては古道木揚場で鞍月用水と合流するまでの2.2km、というのが正しいのではないかと思われます。

ところで、大野庄用水を語る上で「三社どんど」を忘れてはなりません。中央郵便局近くにある水門のような施設が「三社どんど」です。元禄6年(1693年)の記録が残されているというからけっこう古い史跡のようです。ちなみに、どんどは水閘(すいこう)のことで、水の流れを調節する水門だそうです。船の水位を合わせるために水をためていたとのこと。なお、「三社どんど」はかつて「三社どどめき」とも呼ばれていたみたいです。以前「下百々女木町」でご紹介したとおり、堰を落ちる水の轟音を表していたのでしょう。
そういえば、船の水位を調整する水閘、いわば船のエレベーターは、お隣り富山の、世界一のスタバで有名な富岩運河環水公園から岩瀬浜に向けて出航している富岩水上ラインに乗ると体験できますよ。「中島閘門」というパナマ運河式の閘門(こうもん)で、国の重要文化財に指定されています。

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大野庄用水と鞍月用水の合流する古道木揚場(上)
三社どんど(中)
富岩運河環水公園と富岩水上ライン(下)
[参考文献:金沢市の設置案内板など]
[発見日:令和2年3月15日]

御仲間町

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【消滅した年】大半は昭和41年(1966年)、一部は昭和50年(1975年)
【現在の町名】元町二丁目、森山二丁目、小橋町
【感想・雑記】お盆休み、いかがおすごしですか?ふるさとに帰りたくても帰れず、日常と変わらぬお休みを過ごしている方も大勢いることでしょう。ふるさとで過ごしている私も、実家に帰るのはがまんです。
今、お盆休みといいましたが、実は金沢の旧市街地のお盆は先月7月で終わっています。ただし、わたしのふるさと金石町は、旧市街地ではないので8月のお盆です。
もともとお盆は太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われたものですが、明治に入って太陽暦が採用されると、農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦の8月15日のいわゆる「月遅れ盆」とする地域が多くなったそうです。しかし、東京、横浜などの大都市部や東北・北陸の農繁期に重ならない一部の地域では、新暦の7月15日をお盆としているそうです。実は、こちらの記事で過去にもご紹介した情報ですが、あくまでもウィキ先生による情報です。

さて、お盆の風習と密接に関連する風習として、以前「七夕」をご紹介したことがありましたが、「お中元」もお盆に関連する風習だそうです。
お中元とは、初夏の頃、日ごろお世話になった人に贈り物をする風習ですが、最近はあまり見られなくなってるようです。一般には、7月初旬から7月15日頃までに贈る地域と、7月15日から8月15日頃までに贈る地域があるようです。ほら!7月15日ってことで、お盆との関連が見えてきました。といってもお中元は、中国の道教に由来する行事だそうです。仏教行事っぽいお盆(盂蘭盆会)との習合ってことでしょうかね。中元というくらいなので上元と下元もあるそうです。岐阜県下呂市下呂温泉の、上呂中呂下呂があるのと同じ雰囲気ですね。(無理やり地名ネタに関連させてる?)

そろそろ閑話休題。今回ご紹介する「御仲間町」は「おちゅうげんまち」と読みます。「おなかままち」ではありませんが、お中元とも全く関係ありません。
御仲間(おちゅうげん)とは、武士である「足軽」と、非武士階級の「小物」の中間に位置する身分の、いわゆる「武家奉公人」の身分だそうです。軽輩者と呼ばれる最下級の武士といってもよいかもしれません。元禄の頃は「御馬屋町」と呼ばれ、馬の世話をする御仲間の組地があったことから、のちに御仲間町と呼ばれるようになったとのことです。場所は、森山北交差点のあたりです。昭和40年と書かれた御仲間町の電柱番号札、かろうじて1本だけ残っていました。電柱番号札での旧町名ご紹介は多少心苦しいところではございますが、おそらくこの1本しか残っていません。電柱番号札とはいえたいへん貴重なものだと認識しております。

ところで、森山北交差点、森山の中心といってもいい大きな交差点なのに森山交差点ではなく、森山北交差点です。森山交差点は、その南のコンビニ前にあるとても小さな交差点です。それはなぜか。実は彦三大橋から山の上交差点までのびる道路は、昭和63年(1988年)に開通した比較的新しい計画道路(森山・有松線)です。わたしの子どもの頃はまだなかった道路なんですよね。そのため、本来大きな道路で区切られることの多い街区は、この森山・有松線では区切られていません。ゆえに小橋町は、森山・有松線をまたぐ形になっており、東山三丁目との境界は、浅野川にかかる小橋から続くせまい道路となっています。そりゃ小橋町っていうくらいだから、小橋は小橋町にないとね。
以上、興味のない方には全くどうでもよい豆知識でした・・・。

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旧御仲間町界隈の森山北交差点
[参考文献:ウィキペディアなど]
[発見日:平成27年11月14日]

木倉町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【復活した年】平成15年(2003年)
【現在の町名】木倉町、片町二丁目
【感想・雑記】本日、令和2年3月9日は、この日記をつけはじめてちょうど8年目の記念日です。といっても、当初のせっせとした感じはどこへやら、ここ最近は年に数回の更新ペースでゆったりと時を刻んでおります。

さてさて、8年前、一番最初にご紹介したのが、金沢ではじめて旧町名復活した「主計町」でした。ですので、満8年目の今回、同じく復活した旧町名である「木倉町」をご紹介してまいりたいと思います。

「木倉町」は「きぐらまち」と読みます。昭和40年(1965年)、片町二丁目となって消滅しましたが、平成15年(2003年)に華々しく復活を遂げました。
木倉町といえば金沢の夜の顔。居酒屋の並ぶ小路です。でも3月現在、未知のウィルスの猛威によるさまざまな自粛ムードのなか、居酒屋は大きな被害を受けているときいています。一日も早く、災いが去って、また平穏な日々がもどってきてほしいとせつにねがってやみません。

木倉町の由来は、「藩政の初めころ、藩の材木蔵があったのでこの名がついた。もとは木町、また一時期、西側半分は出大工町とも呼ばれていた。本町の一つ」(金沢市のホームページより)だそうです。藩政初期から続くかなり古い町名のようですね。本町というのは町の中でも最も格付けの高い町で、地子銀と呼ばれる税金が免除された町だそうです。

江戸時代は木材の流通や輸送が経済活動のなかでも重要な役割を果たしていました。金沢では、木倉町のほか、材木町木町、木揚場などなど、木材に関する町名が見られます。材木は、宮腰の湊(現在の金石港)から木曳川、そのあと大野庄用水に入って城下に運ばれたのち、木揚場、木倉町などで荷揚げされて、材木蔵に貯えられたと考えられます。ちなみに大野庄用水は、木材などの大切な荷物=御荷を運ぶ川、ということで御荷川と呼ばれ、鬼川と当て字されたりしています。過去のこちらの日記などにもこのことを書いていますのでご参考まで。

以上、木倉町のご紹介でした、おしまい。…と終わらせる前にあとひとつだけ。今回ご紹介した旧町名の遺産、どこかで見たことがありませんか?緑のうぐいすもち型のアレ、長町校下でしか見つからないという例のアレです。大工町でご紹介しましたね。謎の組織「青産研」てなんぞや、という話なのですが、どうやら、「石川県青年産業研究協議会」という団体らしい、ということが分かってきましたが、これ以上のことは分かりませんでした。引き続き調査を継続いたしますので、本日はこのへんでご勘弁を。では、9年目もひとつよろしくおねがいいたします。

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昼の木倉町通り(外出自粛につき大薮小路の回の使い回し写真)(上)
鬼川の聖天(養智院)(裏古寺町の使い回し写真)(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成24年4月30日]

七宝町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)、昭和45年(1970年)
【現在の町名】玉川町、武蔵町
【感想・雑記】七宝町(しっぽうまち)。7つの宝といえば、集英社系の某神龍の玉を集める鳥山作品か?はたまた小学館系の某犬妖怪の子狐ちゃんのるーみっく作品か?
由来がよく分からないので、角川書店系の某地名大辞典を読みましたが、「下伝馬町の一部を七宝小路とし明治4年の新定区画には町名が見えるが、それ以前の町名の起源については不詳」ということで、7つの宝の意味はよくわかってないようです。

まあそんなわけで、七宝町の情報はほとんどないため、そろそろおひらき、なのですが、、、なんと!平成16年、この旧町名が「復活」していたのです!!
といっても金沢の旧町名復活、ではなくて、交差点の名前として復活したということなのです。もとは現町名の「玉川町」交差点だったのが「七宝町」交差点に生まれ変わったのでした。一体何があったのでしょう?
実はこの年、金沢市立玉川図書館前の新しい道路が開通するのと同時に、玉川町商店街と交差する交差点の名前が「玉川町」交差点になったために、それまでの玉川町交差点が七宝町交差点になった、ということなのです。旧町名時代からの交差点が、町名消滅後も残っていることはよくありますが、現町名を冠する交差点が旧町名に変わる例はあまり見たことがありません。全国的にはどうなのでしょう???
というわけで、今回は情報量少なめの七宝町のご紹介でした。

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七宝町交差点(旧玉川町交差点)(上)
"新しい"玉川町交差点(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)]
[発見日:平成26年5月4日]

與力町四番丁

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】宝町
【感想・雑記】今回ご紹介するのは、金沢を代表する河岸段丘、小立野台地にあった与力町です。旧字体で書くと與力町。かつての與力町の町域の大半は、大学病院(金沢大学附属病院)の敷地です。人の住まう町としては、かろうじて與力町一番丁と四番丁だけ町として残っていたのですが、昭和39年(1964年)に消滅して「宝町」となってしまいました。

このたび掲載した表札ですが、6年も前に撮ったもので、すでにお宅は取り壊され駐車場になってしまって今はもうありません。地番合併とあるかなり珍しい表札かと思いますが、おそらくすでに廃棄されてしまっているでしょう。ある意味、文化財にも相当するお宝だと思うのですが、こういった旧町名の遺構やお宝、なんとか保存することはできないものでしょうか。どうでしょうか。
なお、今回の表札、肝心の與力町の字がだいぶ崩されたり擦れたりして読みづらくなっていますが、なんとなく「與」?あと「四」の字がかろうじて読めるかんじでしょうか。どうでしょうか。まあ見つけた場所は間違いなくかつての與力町四番丁なので、そう書いてあると信じてさきに進みましょう。

與力町の町名の由来ですが、城下町らしい金沢ならでは、藩士の身分である「与力」に由来します。(以降は一般的な新字体の「与力」としますね)「与力」とは、藩主にお目見えのできないお目見え以下と呼ばれる身分で、禄高は60から300石程度(といってもぴんときません)です。原則一代限りの身分だそうです。加賀藩では、最下級の身分から順に、中間・小者、足軽【ここまでが軽輩】>御歩、与力【ここまでがお目見え以下】>平士、人持、年寄衆【お目見え以上】>加賀八家まで。このように武士階級は階層構造になっていました。江戸の幕府、各藩もだいたい同じですが、藩や時代によっても呼び名が少しずつちがうようです。与力町には与力階級の武家地として、大きなお屋敷が何軒もあったということなのです。

さて、そんなお屋敷の中に、この地に住んでいた与力が代々丹精込めて育てた樹齢数百年の松があり、13代藩主の前田斉泰公がぜひとも兼六園に移したいと望んだのですが、あまりの大きさに断念し、代わりに維持費として五人扶持(一人扶持は1人1日玄米5合だそうです)を与えて「天下に得難い松だから心して手入れせよ」と命じたといういい伝えが残されているそうです。この松は今もお屋敷で大事に育てられており、その名も「五人扶持の松」と呼ばれております。
のちにこのお屋敷は、実業家で、参議院議員でもあった林屋亀次郎のお屋敷となりました。現在、このお屋敷は亀次郎さんが開学した北陸大学の教養別館(「林鐘庵」とも呼ばれてるそうです)となっています。一般公開はされていませんが、ときどき特別公開されます。昨年夏も「かなざわ・まち博」で限定公開されました。

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旧與力町四番丁界隈(上)
大半が與力町内にある金沢大学病院(中)
五人扶持の松のある北陸大学教養別館「林鐘庵」(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成25年11月10日]

長田弓ノ町三番丁

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】長田一丁目
【感想・雑記】新年あけましておめでとうございます。年を追うごとに更新頻度がさがるこの日記。わたしは生きてます。
さて、今回は、久々の弓ノ町シリーズです。金沢市には、かつて「弓ノ町」とつく町がいくつもありました。弓ノ町上弓ノ町中弓ノ町、下弓ノ町、三社弓ノ町、六斗林弓ノ町、そして今回ご紹介する長田弓ノ町です。弓ノ町の由来は、足軽弓組とよばれる弓部隊の組地(足軽の集合住宅地みたいなもの?)があったことによるものです。ということは、金沢には足軽の弓部隊がたくさんあったということなのでしょうか。ご紹介の長田弓ノ町は、石川郡長田村に隣接する弓兵の組地が置かれたことから名付けられたようです。

さて、今回発見したのはカマボコ型の電柱番号札ですが、通常は右下にあるはずの昭和○年の記載がありません。まあでも、カマボコ型のものは従来の例から昭和30年前後のものばかりなので、きっとこの電柱番号札も古いものだと信じましょう。
ところで、発見した電柱番号札にあるのはただの「長田弓町」としかないのに、どうして今回紹介する町が「長田弓ノ町三番丁」なのか。それには理由があるのです。
長田弓ノ町一番丁と二番丁は、大正5年の記録では戸数0だったそうです。その後、昭和7年には金沢市立長田町小学校(当時は長田町尋常小学校)が長田弓ノ町一番丁一番地の地に建てられることになり、一番丁は校舎、二番丁は校庭となってしまい、結果として長田弓ノ町は三番丁だけが人の住む町となったようなのです。だから今回見つけた電柱番号札は長田弓ノ町三番丁と言い切ってもさしつかえないわけです。ただ惜しむらくは・・・見つかったのが「長田弓町3」だったらよかったね。(ちなみに長田弓町2の数字部分は電柱を識別する固有番号のようです)

さてさて、今年もかなりのスローペースが予想されますがぼちぼち更新していきます。ご愛顧のほどよろしうおねがいいたします。

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旧長田弓ノ町一番丁と二番丁に立つ金沢市立長田町小学校(上)
旧長田弓ノ町三番丁界隈(中)
長田弓ノ町(と思われる)に建つ長田菅原神社(下)
[参考文献:長田町校下まちづくり委員会編(1998)『長田のあゆみ』長田町校下まちづくり委員会]
[発見日:平成26年5月4日]