長土塀通

f:id:cho0808:20120325155730j:plain:left:h300【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】長土塀一丁目、芳斉一丁目、芳斉二丁目、長町三丁目
【感想・雑記】長土塀は「ながどへ」と読みます。長土塀一番丁から六番丁までありましたが、比較的ひろい町域にも関わらず未だ発見できていません。今回はごくせまい町域の長土塀通が発見できました。
なお、長土塀自体は現在も残る町名で、町名の由来は、加賀八家の長氏、村井氏などのお屋敷の土塀が長く続いていたことによります。
長土塀通は、以前に紹介した三構町内の三叉路の右側の通りを長土塀方面に進むと、いつのまにやら長土塀通りと呼ばれる通りにつながります。目貫通りである昭和大通りの裏手となり、今はひっそりとしていますが、かつては大きなにぎわいを見せていたとのことです。

さて前回の続き、当ブログのカテゴリーの秘密にせまっていきましょう。カテゴリー上、東京には23区があるので区分けには苦労しませんが、金沢には、23区はおろか1区もないのでカテゴリー分けには苦労するわけです。そこで、金沢人になじみの深い区割り方法といえば・・・そうだ!「校下」で行こう!

…ということで当ブログのカテゴリーは校下名でカテゴリー分けしています。「校下(こうか)」というのは金沢の言葉で、(主に小学校の)学区・校区域をさす言葉です。金沢市ホームページの旧町名一覧にも校下名がのっています。それほどまでに校下は、金沢人にはおなじみのカテゴライズ方法なのです。例えば、前回の長町八番丁の子どもは長土塀小学校に通っていたので、長町八番丁は長土塀校下、ということになります。ちなみに今回の長土塀通、参考資料によると、どうやら一部は芳斉町校下な気がしています。しかし、一町が2カテゴリーに属するというのは設定不可能なので、長土塀校下ということにしちゃいました。

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現在の長土塀通
[発見日:平成24年3月25日]