尾張町(下)

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【消滅した年】昭和45年(1970年)
【現在の町名】尾張町一丁目、尾張町二丁目
【感想・雑記】いきなりですが、銀座五丁目付近の旧町名は尾張町です。そして、銀座三越服部時計店(現在は和光)の時計台がそびえる日本一有名な(?)交差点・銀座四丁目交差点は、昭和5年(1930年)に尾張町が消滅するまでは尾張町交差点と呼ばれておりました。
いっぽう、こちら金沢に現存する尾張町交差点です。尾張町と交差する殿町側の往来あたりには、かつて中町がありました。また、新町と今町は、ともに尾張町の左右裏通りにあった旧町名ですが、いずれの町も尾張町交差点(中町)をさかいに上新町・下新町と、上今町・下今町に分かれておりました。武蔵ヶ辻側が上、橋場町側が下。
これはぜったいに怪しい、とつぶやいた男が一人。さっそくグーグル探偵に調査を依頼。10秒で回答をゲット。はたして男の推理どおり、尾張町も、江戸時代には尾張町交差点(中町)を境界として上尾張町と下尾張町に分かれていたことをつきとめました!詳しくは参考文献、金沢再発見さんのこちらの記事 #1をご覧ください。ちなみに、前回の金澤コクヨさんも金澤貯蓄銀行さんも石黒傳六商店さんも、すべて上尾張町です。逆に今回ご紹介の写真は、すべて下尾張町モノですよ。

今でこそ少し寂しいかんじですが、江戸時代〜明治・大正時代までは、ここ尾張町が金沢の中心繁華街でした。まさに金沢の銀座・尾張町だったのです。特にお城の石垣下とよばれた下尾張町は町の一等地として商家の大店(おおだな)が軒を連ねていたのだそうです。
加賀藩御用達の和菓子処「森八」もその一つ。寛永2年(1625年)森下屋八左衛門創業の、金沢を代表する和菓子屋さんです。長生殿、宝達、千歳、蛇玉最中などといった和菓子が有名。上生菓子も美味。昨年(2011年)大手町に移転するまで、約380年にわたって、ここ(下)尾張町に店を構えてきました。

ところで、本日7月1日は氷室の朔日(ひむろのついたち)とよばれます。冬の間に氷室小屋に貯えた雪を、旧暦6月1日に取り出して、加賀藩から将軍家に献上したのが習わしです。現代では観光目的として、6月最終日曜日に湯涌温泉で氷室開きが行われています。
7月1日になると金沢市民は、無病息災を祈って、赤白緑の氷室まんじゅうを食べることになっています。昨日、4人家族のわが家にまんじゅうが20個届きました。氷室まんじゅうといえば、森八よりも越山甘清堂のが有名かな?ともあれ、県内外のかた、金沢にお越しのさいはぜひ伝統の加賀和菓子文化にふれていただければさいわいです。

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天保14年創業 諸油問屋森忠商店(上)
旧森八本店跡(手前)と泉鏡花記念館(左奥)(下)
[参考文献]イーナビライフ・ドットコム市民が見つける金沢再発見 #1市民が見つける金沢再発見 #2
[発見日:平成24年6月27日]