金石冬瓜町
【消滅した年】昭和43年(1968年)
【現在の町名】金石西一丁目
【感想・雑記】お祭り記念の金石○○町シリーズ三部作のラストは金石冬瓜町です。超難読ですよ。「かないわかもりまち」です。冬瓜と書いて「かもり」です。ふつうは読めません。
「かもり」は「神守」に通じると言われており、大野湊神社夏の大祭では、三基のお神輿のうち一基が冬瓜町のお神輿となっています。「神守」として唯一、一つの町が一つの神輿をかつぐ町なのです。あと、必ずお神輿行列の立ち寄るお旅所(休憩所)が、冬瓜町にある天磐櫲樟船社だったりもします。そんなこんなで、冬瓜町は金石の町の起源とも言われています。もちろん神話的な時代のお話しです。
ところで、金石の町が文献に出てくるのは1300年ごろ、ちょうど鎌倉時代です。そのころは宮腰(みやのこし)と呼ばれていました。江戸時代には北前船の寄港地として繁栄してきた宮腰でしたが、すぐお隣りの大野町も同じく港町として栄えており、ことあるごとに利害対立が起こっていました。そのため加賀藩は、両方の町を合併することとして、「固きこと金石(きんせき)の交わり」との意味を込めて、金石町と名づけました。それがちょうど藩政末期の慶応2年(1866年)のことです。
金の石がごとく固い契りを交わしたはずの宮腰町と大野町でしたが、明治22年(1889年)に大野地域が下金石町として分離、その後明治31年(1898年)にふたたび大野町に改称して、合併は失敗に終わりました。その後、宮腰地域だけはそのまま金石町の名を使いつづけて現在に至ります。そんな歴史の両町ですが、じいちゃん世代はいまだに遺恨ありげな雰囲気のお隣り同士の町同士なのでした。
さてそんな冬瓜町ですが、代々我が家の祖先から、じいちゃんがいた頃までは、この冬瓜町に住んでいたそうです。この街でいろんなロマンスが生まれ、今の私がいるということです。
以前にお話ししたとおり、金沢の旧市街地は新暦のお盆ですが、金石町のお盆は月遅れのお盆です。わたしも昨日墓参りに行って参りました。しばしお帰りになったわがご先祖さまたちも郷愁にひたるこの金石冬瓜町で、金石○○町シリーズをしめたいと思います。ではでは。
冬瓜町のお神輿(上)
冬瓜町にある天磐櫲樟船社(下)
[参考文献]いいね金沢(金沢の指定文化財一覧)
[発見日:平成24年8月11日]