【石川県河北郡】倶利伽羅村字越中坂

f:id:cho0808:20130119153635j:plain:left:h300【消滅した年】昭和32年(1957年)
【現在の町名】石川県河北郡津幡町越中
【感想・雑記】「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の共として♪」明治33年(1900)に発表された鉄道唱歌です。金沢駅を発車した急行能登の車内で流れるチャイムでしたよね。ちなみに寝台特急北陸号のチャイムは、たしか百万石音頭でした。「お城取ろうか百万石のぉー♪」横浜にいた頃はどちらもよく使ってました。寝台列車って、なんか楽しかったですなぁー。

さてさて今回は、鈍行列車で富山方面に向かい、旗源平のルーツをたどる回でした。なお鈍行列車では車内チャイムは流れません。。。
金沢駅を出発した鈍行列車は、東金沢駅森本駅津幡駅の順に停車し、約20分で富山県小矢部市との県境にある倶利伽羅(くりから)駅に到着します。倶利伽羅駅のあたりは現在、石川県河北郡津幡町ですが、かつては石川県河北郡倶利伽羅村でした。この倶利伽羅村は明治40年(1907年)に旧倶利伽羅村と萩坂村が合併してできた村で、その旧倶利伽羅村は、明治22年(1889年)に旧旧(元祖)倶利伽羅村、竹橋村、刈安村、坂戸村、九折村などの11村が合併して誕生した村だそうです。
この明治22年(1889年)というのは、近代の市町村制度が誕生した記念すべき年で、これ以前に存在したいわゆる封建制度下の町や村の名前は、字(大字)として新しい市町村に残ることとなりました。つまり今回ご紹介する倶利伽羅村字越中坂は、明治22年以前は越中坂村だったということです。なお、越中坂の由来は富山県境(加賀・越中国境)にあって、山麓に位置し、越中へ向かう道筋であることによるそうです。

ようやく本題。倶利伽羅といえば、倶利伽羅峠です。元祖倶利伽羅村のあった場所です(津幡町倶利伽羅倶利伽羅村字倶利伽羅)。倶利伽羅の名前は、倶利伽羅龍王(不動尊)を本尊とする倶利伽羅堂に由来します。この地は、寿永2年(1183年)、木曾殿として知られる源義仲(木曾義仲)が平維盛の10万の軍勢に対して大勝をおさめた「倶利伽羅峠の戦い」で有名です。この戦いで木曾義仲は、牛の角にたいまつをしばりつけて、その牛の大群を敵陣に放つという「火牛の計」と呼ばれる作戦を使ったといわれています。
平成の現代、角にたいまつをつけた牛さんはもちろんゆるキャラ氏(メルギューくんとメルモモちゃん)になり、原付ナンバープレートにもなりました。さらに、「源平火牛まつり」なるお祭りも開催されていますが、これらはすべて富山県小矢部市のものです。(リンクはいずれも小矢部市のHPに貼ってあります)
とはいえ石川県でもいくつか火牛さんを見つけることができました。

ということでかなり短い旅レポートでしたが、旗源平のルーツをたどる旅と題してお送りしました。じつは金沢駅から逆方向の小松方面にむかうと、木曾殿の従兄弟である源義経と弁慶の逸話で有名な「勧進帳」の舞台、安宅の関があるのですが、ご紹介できるかどうかは今後のさがす会活動しだいとなります。ではでは!

義仲の目覚めの山か月かなし(松尾芭蕉)
木曾殿と背中合わせの寒さかな(島崎又玄)

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津幡駅 火牛の像(上)
倶利伽羅駅 火牛の看板その1(中)
倶利伽羅駅 火牛の看板その2(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1981)]
[発見日:平成25年1月19日]