上石伐町

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【消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】寺町三丁目、寺町五丁目
【感想・雑記】前回に引き続き寺町の旧町名をご紹介します。なお、前回写真にのせたお寺の名前に一部誤りがありました。申し訳ありませんでした。
さて、今回ご紹介するのは上石伐町(かみいしきりまち)です。発見した旧町名の名残は、電柱番号札の「石伐町線3号」と書かれたもののみでした。これははじめてご紹介する電柱番号札のタイプですが、勝手にType-Zと名付けてます。ZannenのZです。スチールペラペラのデンリョク系番号札の一種ですが、必ず「◯◯線×号」と記載されてるのが特徴です。これまで見てきたような北陸電力の旧ロゴマークや設置年月の記載がないので、ちょっとイケてない残念なタイプです。申し訳ございません。。。

上石伐町へは、前回ご紹介した立像寺から堀込町のほうに向かう途中の信号を渡ります。その信号のさきにあるタバコ屋さんを曲がったせまい小路に上石伐町はありました。つまり、前回の堀込町とはちょうど寺町通りをはさんで向かい側の区画ということになります。
上石伐町というくらいなので、当然ながら下石伐町もありましたが、ちょうど寺町台地の上と下で町が分かれておりました。この、上石伐町と下石伐町をつなぐのが、W坂として有名な石伐坂です。
W坂というのは旧制第四高等学校(四高)の学生が名付けたと言われています。由来は石伐坂の形にあります。「少し登ると折れ曲り、また少し行くと折れ曲っている」のです。ちなみに旧制四高を卒業した井上靖の小説『北の海』の一節を引用してみました。(北の湖だからといって強引に相撲ネタには行きませんw)
なので別にM坂でもいいのですが、第4の未知数、Wの命名がちょっとカッコイイような気もします。

石伐町の由来は、金沢城下東方約8kmの場所にある戸室山から石を切り出す石伐職人20人の住居があったことによります。この定員20人の職人集団は「二十人石伐」とよばれたらしいです。戸室山から採掘される石は「戸室石」と呼ばれる貴重な石で、一般庶民の採掘を禁止した「お留石」とされていたそうです。戸室石は金沢城下に運ばれて、金沢城の石垣や兼六園の庭石や辰巳用水の石管などに使われました。なかでも金沢城の石垣については「石垣の博物館」というくらい、全国に例をみないほど多種多様の石垣が存在するそうです。野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギなど石垣づくりの技が生かされてるらしいのですが…豪華絢爛な天守閣のある全国その他のお城とちがって、いかんせん石垣とは地味すぎます。とはいえ、一部の城マニア、石マニアにはたまらんお城なのかもしれません。こういうマニア心を大事にすることもきっと重要なことなのでしょうね。
なお、金沢城の石垣を築いたのは、築城の名手で特に石垣普請の名人でもあった出羽守篠原一孝だそうですが、実はよく知りませんでした。篠原一孝は特に前田家3代藩主の前田利常に仕え、他にも外惣構堀とよばれる広大な堀を築いた武将だそうです。この篠原出羽守についてはいろいろとお話ししたいこともありそうな気がするので、またの機会にお話しすることにしましょう。でわ。

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W字に折れ曲った石伐坂(W坂)(上)
篠原一孝が普請した金沢城本丸南面の高石垣(下)
[参考文献]『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1981)、いいね金沢金沢城の石垣めぐり案内板など
[発見日:平成25年2月2日]