穴水町四番丁

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】芳斉一丁目、長土塀一丁目
【感想・雑記】またしても電柱番号札、しかも「穴水町四番丁線3号」と書かれた、Type-Zの番号札ご登場です。「穴水町四番丁線」といわれると、番号札がご当地の町名ではなく、あくまで電柱の路線名であることを実感します。なお、通常タイプのスチールペラペラとの共存ですが、こちらは穴水町四番丁消滅後の昭和42年10月設置ですので、厳密にはわれわれのさがすべき対象外のシロモノでした。

当初はご紹介するにも苦渋、煩悶、逡巡のあった電柱番号札ですが、最近は何のためらいもなく出てきてて、すみません。でも、このブログの連載が続いているのは、ひとえにわたしの怠慢と、少しのズルと、そしてこの電柱番号札のおかげなのであります。ありがたやーありがたやー。

さて、前回に引き続き穴水町です。金沢にあった穴水町の由来は、加賀八家であった長氏の祖先が能登の穴水出身だったことによると前回述べましたが、今回は、そもそも能登にある穴水の名前の由来を調べてみることにしました。

突然ですがみなさま。能登の海といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか。荒波ザッバーンで、演歌で、ヤセの断崖で、潮風ピューピューで、サスペンスで、シベリア返しで、御陣乗太鼓(http://www.youtube.com/watch?v=Bxmt041lC0U)で、能登はいらんかいねー、といった男くさい荒々しさをイメージされる方も多いと思います。しかしそれは巌門や輪島など能登外海のイメージであって、七尾湾に面した、七尾、中島、穴水などの能登内海は、波も穏やかで全然ちがった印象となっています。このように、内浦で波の穏やかな様子から、穴水はかつて「和那美乃水門=和波の湊(わなみのみなと)」と呼ばれたそうですが、またの名を「和波の津(わなみのつ)」と呼び、それがつづまって「わなみづ」→「あなみず」となったという説があるらしいです。ごぞんじでしたか?

ところで、穴水町四番丁のあたりには「穴水町児童公園」があり、かろうじて穴水町の名前が残されているのですが、この児童公園のすぐ近くに、やや時代を感じさせるアパートメントが建っています。名前は「二水荘(にすいそう)」です。かつてここ穴水町にあって、昭和31年(1956年)に寺町台に移転した、金沢二水高等学校に由来する命名のアパートメントです。
ということで次回の三番丁は、金沢二水高校大解剖の巻です。
こうごきたい(^o^)/

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グーグルマップ・説明付き(上)
波穏やかな中島町(現七尾市中島)の能登内海(中)
穴水町児童公園と二水荘(下)
[参考文献:角川日本地名大辞典 17 石川県]
[発見日:平成25年2月17日]