穴水町三番丁

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】芳斉一丁目、長土塀一丁目
【感想・雑記】能登の内海といえば七尾湾。(能登の)穴水町にも近い能登地方最大の都市である七尾市の出身で昨年(2012年)のパリーグ首位打者千葉ロッテマリーンズ角中勝也選手がサムライジャパンに選出されました。角中選手といえば、輪島にある日本航空第二高校(現・日本航空石川高)出身ですが、本日お話しする金沢二水高校は、金沢第二水産高校ではございません。

穴水町三番丁には、前回もお話しした穴水町児童公園がありますが、ここには3つの記念碑が建っています。ひとつは旧穴水町の碑、ふたつめは金沢二水高等学校創設の地の記念碑、あとのひとつは旧制金沢第一高等女学校の記念碑です。
戦前、全国各地にいわゆるナンバースクールといわれる旧制中学があったのはご存じでしょう。東京の府立中学などは有名ですね。最終的には23校あったそうです。金沢には、(公立で)金沢一中から金沢三中まで3つのナンバースクールがありました。これらは現在、金沢泉丘、金沢錦丘、金沢桜丘というように、すべて名前に「丘」のつく県内有数の進学校となっています。ちなみに通称では「丘」をつけずにいずみ、にしき、さくらなどとよんでいます。同じく進学校の金沢二水に「丘」がつかないのは旧制中学を前身としないからだと思われます。なお、旧制中学はすべて男子高であり、女子学生のための中等教育機関が旧制の高等女学校なのであります。

昭和23年(1948年)に新しい学校制度のもと、旧制金沢第一高等女学校のDNAを受け継ぎ、同じく女子高として金沢第二高等学校が誕生します。しかし、すぐ翌年の昭和24年(1949年)に男女共学の方針により金沢二水高等学校と校名を変更して装い新たに誕生しました。二水の同窓会は、金沢第二高等学校の卒業生を一期生とします。明治31年(1898年)創立の金沢第一高等女学校がほとんど前身校といってもよさそうなのですが、二水の歴史は公式には昭和23年にはじまるらしいです。このとき、第一高女の穴水町校舎もそのまま使用することとなり、昭和31年(1956年)に寺町台の先、野田山近くの長坂町(現・緑ヶ丘)に移転するまで使われました。移転後の穴水町は住宅地となり、公園ができ、二水荘が建つなどして現在に至っております。

さて「二水」命名の由来ですが、じつはよく分かっていないそうです。でも「第二水産」でないことだけは確かです。金沢で、二つの水といえば犀川浅野川と思ってしまうのですが、異なる説があるそうで…。どうやら、ヒントは校歌にあるらしいので次回二番丁では、さらに二水高校の校歌のヒミツにせまってまいりますよ。もうちっとだけ続くんじゃ(^O^)/

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石川県立金沢二水高等学校創設の地 記念碑(上)
石川県立金沢第一高等女学校 創立百周年 記念碑(下)
[参考文献:石川県立金沢二水高等学校ホームページ、同校同窓会ホームページ、穴水町児童公園の記念碑]
[発見日:平成25年2月17日]