穴水町二番丁

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】長土塀一丁目
【感想・雑記】一番上のデンリョク系番号札がなぜか「穴水二」ではなく「玉川左七」です。「玉川」とは、穴水町のお隣りの玉川町のこと。町の形は変わりましたが今も現役で残る町名です。辛うじて一番下のデンデン系番号札が「穴水町二番丁幹」となっていたので、どうにかタスキがつながりました。
そんな今回は前回の続きです。引き続き穴水町にかつてあった金沢二水高等学校の話題でございます。「二水」の名前の由来をめぐって、二水の校歌のヒミツか何かにせまるとか、せまらないとか、の回でした。

二水の校歌については、YouTubeにて検索できます。歌詞付きで発見しましたので、とにかく1題目を見てみましょう。あ。ちなみに「1題目(いちだいめ)」とは、金沢弁で歌の「1番」のことをいいます。県外に出るまで標準語だと思ってたというのは、きっと、早く言いたい石川県民あるある。
と、それはさておき校歌の1題目はこんな感じです。

美しき暁や
二方(ふたかた)に水別れ
衢(ちまた)の音 とよみ来る
我が社会 ここに覚め
潔しきよし 若うどの
わが使命ここになりなむ

方に 別れ」あたりがまさに「二水」です。美しい朝日(暁)を見た感動とともに高らかに歌いあげられておりますので、実際に穴水町の校舎から朝日ののぼる東南方向を見てみますと・・・おおおお!本当に二方に水が分かれてるではありませんか!詳しくはグーグルマップをご覧あれ。この二方に分かれて流れてくる川のようなものは、じつは川ではなく、大野庄用水と鞍月用水という用水なのです。
金沢は「用水の街」と言われるくらいに用水の数が多く、市内に全部で55もの用水があり、その総延長は150kmにもおよぶそうです。そのうちの東西両大関ぐらいなのが、この大野庄用水と鞍月用水です。横綱はおそらく辰巳用水でしょう。

大野庄用水は、上伝馬町のときにも少しお話ししましたが、かつて金沢城築城の際に金石や大野といった港から木材を運搬することなどに使われた用水です。別名は御荷川(鬼川)とも呼ばれます。
いっぽうの鞍月用水は金沢の中心、香林坊を流れており、金沢の城下町一帯を土塁や外垣とともに堀で囲った惣構のひとつ、西外惣構(堀)の一部を形成しております。金沢には東西、内外の惣構がありますが、このうち外惣構をつくったのが、築城の名手であった出羽守の篠原一孝とのことです。

このように二水の由来には、ちょうど穴水町を分けて流れる大野庄用水と鞍月用水をさすという説、いやいや浅野川犀川だという説など、諸説あって結論は出ていません。江戸から続く町名の由来ならまだしも、たかだか昭和の話しなのにね。ちなみに校歌ができたのは昭和24年10月で、開校は4月。じつは校歌のほうがあとなのでした。本当は、案外もっと単純で、短命だった前身の金沢第二高等学校の「二」と、穴水の「水」をくっつけただけだったりして。

ところで、この校歌の作詞者は折口信夫(おりぐちしのぶ)です。日本を代表する民俗学者・国文学者にして、釈迢空(しゃくちょうくう)の名前でも有名な詩人・歌人でもあります。
アンカーを務めるラスト一番丁では折口信夫の話題でまとめたいなと。まとまればいいなと。次回、穴水町シリーズ最終回。そんなかんじで穴水町完走をめざします(^O^)/

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グーグルマップ(クリックで拡大します)(上)
長町界隈を流れる大野庄用水(鬼川)(中)
折口信夫直筆の金沢二水高等学校校歌(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)、金沢二水高校 第17期の喫茶室(掲示板サイト)]
[発見日:平成25年2月17日]