飛梅町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)、昭和41年(1966年)
【復活した年】平成12年(2000年)
【現在の町名】石引三丁目、東兼六町→飛梅
【感想・雑記】本日、祝連載1周年です☆ 記念すべき第1回目が、平成11年(1999年)全国にさきがけて旧町名復活した主計町(かずえまち)のご紹介だったので、1周年記念は、平成12年(2000年)に全国で2番目に復活し、4月1日で復活13周年となる「飛梅町(とびうめちょう)」のご紹介にしようと昨日あたりから思っておりました。
しかしながら…。その飛梅町、町域の大半が、北陸学院中・高校と、金沢市立紫錦台(しきんだい)中学校の敷地であるため、今日に至るまで旧町名の名残りをさがしあてることはついにできませんでした。。。ということで残念ながら今回もズル紹介になってしまいました。申し訳ございません。

飛梅町は、加賀八家の一人である前田対馬守(長種)を祖とする前田1万8千石の下屋敷があったことから名付けられたそうです。下屋敷のあるじに由来するのは、穴水町と同じですね。下屋敷跡に町立てされた町を家中町(かっちゅうまち)と言うそうです。その後明治時代になって、この地に明治13年(1880年)に金沢に来た宣教師で、旧制四高の教授となったトマスウィンの邸宅が建ちました。その旧ウィン館は現在、北陸学院の史料館となっています。
ちなみに、なぜ「飛梅町」という名前なのかというと、前田(対馬守)家の家紋「角の内梅輪(かくのうちばいりん)」に関連する故事によるとのこと。前田家の祖先とされる菅原道真が無実の罪で太宰府に流されるときに「こちふかば〜」と歌を詠んで別れを惜しんだ梅の木が、空を飛んで太宰府に降り立ったという故事?伝説?にちなみ、明治2年(1869年)に町の名前がつけられたとのことです。ちなみに空を飛んで太宰府に移動した「飛梅」は、太宰府天満宮のご神木です。

ところで、飛梅町といえば旧制金沢二中の発祥の地です。明治32年(1899年)に石川県第二中学校として開校し、明治40年(1907年)に石川県立金沢第二中学校に改称されました。
そして、なんとその当時の校舎が今も飛梅町にある紫錦台中学校の敷地に残っています。この校舎、昭和23年(1948年)に新制の学校制度が施行され、金沢二中が廃校となったのですが(少し間を置いて昭和38年に金沢錦丘高等学校として復活)、それと入れ替わりにできた金沢市立紫錦台中学校の校舎として昭和45年(1970年)まで使われました。今は「金沢くらしの博物館」として114年目の余生を送っております。左右にある尖塔屋根と中央のトンガリ屋根から、「三尖塔校舎」の愛称で親しまれた校舎となっています。
紫錦台しかり、金沢錦丘しかり、金沢二中にゆかりの学校に「錦」がつくのは、金沢二中の校歌にある「紫錦が陵の学窓に」という歌詞に由来するからだそうです。ちなみにこの「紫錦陵(にしきがおか)」は、ここ小立野台地の美称ということらしいです。

というわけで今回、連載1周年にして、まんをじして初の小立野台地の旧町名ご紹介となりました。小立野台地の町名含めてまだもう少しストックはありますが、、、さてさてあとどれくらい連載が続くでしょうか。文章は駄文でセンスのかけらもなく、しかも文章がただただ長くなるばかりですが…わたしの住む金沢の街について、もう少し時間のゆるす限りお伝えしていきたいと思っております。なお内容には間違いがいろいろあると思うのでご指摘くださればと思います。よろしくおねがいいたします。

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飛梅町界隈(ウィン館前)と辰巳用水(上)
金沢くらしの博物館(旧制金沢二中の三尖塔校舎)(下)
[参考文献:いいね金沢金沢くらしの博物館ウィキペディア(飛梅)
[発見日:平成25年3月9日]