芳斎町

f:id:cho0808:20121027133928j:plain:left:h350【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】芳斉二丁目
【感想・雑記】とうとう月イチ連載の様相を呈してきました。なんとか週イチ連載ぐらいにできるようガンバリマス。

そんな今回は「小学校の校下名になった旧町名はわりと残る」の法則に見事に当てはまっている「芳斎町」のご紹介です。ちなみに校下(こうか)とはいわゆる校区のことをさす金沢弁(富山でも使います)です。
芳斎町は「ほうさいまち」と読みます。ただし、現在も残っているとはいえ「町」が取れて「芳斉」になってしまいました。東京で例えるなら「錦糸町」が「錦糸」になったのと同じですね。

芳斎町も、前回少しだけご紹介した「菊川町」と同じく、芳斎町小学校(現中央小学校芳斎分校)の正面玄関側の通り一本だけの小さな町だったのですが、昭和40年の住居表示によって、芳斉一丁目、二丁目になった際、周囲にあった玉川町、宗叔町、穴水町、長土塀、長土塀通、古道、三社五十人町、英町、勝尾町、三構、六枚町などの一部または全部を飲みこんで超巨大化しました。このうち、六枚町(ろくまいまち)は平成16年(2004年)に復活しております。

芳斎町の町名の由来は、大坂夏の陣のあと三代藩主の前田利常公に、家禄五千石をもって招かれた青木新兵衛芳斎がこの地に住んだことによるそうです。この青木新兵衛は、上杉景勝にも仕えた武将で、槍の達人として知られています。あの伊達政宗の兜の半月を折った(!)ことで有名だそうですよ。じぇじぇじぇー!なお、芳斎は青木新兵衛が入道したのち名乗った法号とのことです。

最後にひとつ訂正がございます。ここまでわたくし、「芳斎町」と表記してきましたが、正式には「芳齋町」みたいです。旧町名のお墓、まちしるべ標柱がそうなってました。また、現在の町名は「芳斎」でも「芳齋」でもなく「芳斉」です。本当は「芳斎」にするはずだったのですが、住居表示を公示するときに「斎」を「斉」と誤って公示したのだとか。しかしっ!それ以上にテキトーなのが電柱番号札です。なんてったって「芳才町」ってなってるし!!

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芳斎町界隈(上)
青木新兵衛と戦った伊達政宗と半月の兜(中)
「芳才町線」の電柱番号札(下)
[参考文献:角川日本地名大辞典 17 石川県(1981)、デジタル版日本人名大辞典Plus
[発見日:平成24年10月27日]