下百々女木町

f:id:cho0808:20130601121956j:plain:left:h400【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】宝町、東兼六町
【感想・雑記】去る6月14日は、前田利家公が金沢に入城した日でした。昔は金沢市立の学校は全て休校でしたよね。そして、それにさきだつこと6月1日、金沢では前田利家公の入城を記念する百万石まつりが開催されました。そこで今回は、前田家とゆかりの深い町をご紹介いたします。
今回ご紹介する下百々女木町は、明治5年(1872年)に誕生した町で、昭和39年(1964年)に住居表示が実施されるまで存在しました。読み方は「しもどどめきまち」です。「下」があるくらいなので「上」百々女木町もございますが発見には至っておりません。

「どどめき」とは一風変わった町名ですが、町名の由来は、東京の等々力(とどろき)などと同じで、川が威勢よくドドドドド〜っと流れる轟音を表しています。今はありませんが、町内にかけられたどどめき橋が町名の由来とのことです。
場所は、兼六園付近から小立野台地にのぼる坂の一つ、「木曽坂」を登りきったあたりにあります。大学病院の裏手あたりで、町内には宝円寺というお寺があります。木曽坂の付近は、木曽谷とも呼ばれており、金沢の町の中心にあるにもかかわらず木曽の山中のような幽すいな雰囲気のある不思議な空間です。このへんも東京の等々力渓谷と似てますよね。まさに都心のオアシス!隠れた癒し系スポットですよ。

さて、この下百々女木町、住居表示後の町名は宝町(たからまち)です。財宝・秘宝がざっくざく、というわけではなく、先述した宝円寺の「宝」の字をとって名付けられたと思われます。しかも、明治5年の町名整理以前、藩政期には百々女木町一帯は宝円寺町と呼ばれていたそうです。百々女木町という町名は失われましたが、1世紀半の時を超えて、宝円寺ゆかりの名前に戻った、といえなくもないような気もしますがいかがでしょうか。。。でもってようやく本題です!この宝円寺というお寺こそが、何と藩祖前田利家公が建立したお寺にして、前田家の菩提寺でもあります。利家公の葬儀もこのお寺で執り行われたのだとか。
利家公が金沢に入城したのが天正11年(1583年)6月14日ですが、同じ年、宝円寺が現在地に建立されました。利家公が越前国の府中城主だったころ、当時、城下郊外の高瀬村(現在の越前市高瀬)にあった宝円寺の大透(だいとう)和尚に深く帰依し、七尾城、金沢城とそれぞれ城下に和尚を招いたのだそうです。ちなみに府中城下の宝円寺は今も越前市(いまだに違和感…武生市のほうがしっくりくるなあ)にあります。また、七尾の宝円寺は、利家公が金沢に移封となったのちは休嶽山長齢寺となって、父休嶽公(利昌、利春とも)と母長齢院をおまつりしたお寺となっております。
今回ご紹介の宝円寺や、前回ご紹介の仰西寺などなど、小立野台地には数多くの寺院がございます。小立野寺院群は、これまでにご紹介した卯辰山寺院群、寺町寺院群とともに金沢の三大寺院群のひとつですが、とくに前田家ゆかりのお寺が多いような気がします。

ところで、百万石まつり大名行列、今年の利家公役は松村雄基さんでした。そして、北陸放送(MRO)の4時間生放送の応援ゲストとして、5年前に利家公役を務めた山下真司さんも来県。松村雄基と山下真司、といえば、スクールウォーズ!ということでたいへん話題になった今年の百万石まつりでした。「イソップぅー!」
…と、この話題も、もっとタイムリーにお届けできればよかったのですが、すでに半月すぎてるし。。。

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宝円寺山門(上)
利家公のうしろ姿(下)
[参考文献:角川日本地名大辞典 17 石川県(1981)、いいね金沢(金沢市HP)越前市HP]
[発見日:平成25年6月1日]