裏千日町

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【消滅した年】昭和44年(1969年)
【現在の町名】千日町、白菊町
【感想・雑記】今週、金沢もようやく梅雨に入り、ちょうどの実のなる季節になってきました。今日は、裏千日町の電柱番号札とともに、小説『杏っ子』に代表される作家・詩人の室生犀星についてとりあげたいと思います。

犀川大橋南詰の犀川大橋交番前の坂を下ったあたりは、今も昔も千日町という町ですが、その千日町から旧五十人町に通じる西側の小路を入ったあたりにあったのが裏千日町(うらせんにちまち)です。ただし今回ご紹介する裏千日町と書かれた昭和30年式カマボコ型電柱番号札は、なぜか裏千日町の町内ではなくて(旧)千日町(もしくは旧西側町かも?)の町内にて発見されました。そのため今回のご紹介は、じつはズル紹介ということなのです。スミマセン。。。

千日町の由来は、犀川大橋交番の坂を下ったところ、犀川のほとりにある雨宝院の山号「千日山」にちなみます。雨宝院という名前がいかにも梅雨らしいでしょ?そして、今回ご紹介の裏千日町に生まれ、この雨宝院で育ったのが金沢三文豪の一人の室生犀星なのです。
室生犀星明治22年(1889年)、裏千日町31番地に住んでいた加賀藩士小畠弥左衛門吉種と、女中のハルと呼ばれた女性の子として生まれました。私生児のため、ほどなくして千日町1番地の雨宝院住職・室生真乗と、その内縁の赤井ハツにもらわれ、照道と命名されます。この出生に秘めた暗いかげは、犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えたといわれているそうです。
その後犀星は、長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職しながら、尾山篤二郎らと北辰詩社を結成するなど、俳句や詩の才能を開花させていきます。明治43年(1910年)にはじめて上京して、萩原朔太郎堀辰雄らと親交を結び、詩や小説をつぎつぎと発表して文壇に名を轟かせ、昭和37年(1962年)に73年の生涯を閉じました。代表作といわれる『杏っ子』は晩年に書かれた小説で、金沢で私生児として生まれた平山平四郎という小説家と娘の杏子を描いた自伝的な作品です。そういえば、杏子のモデルとなった娘の室生朝子さんがお亡くなりになって、今年の6月19日でちょうど11年となりました。

でもおそらく、犀星といえば小説よりも詩を思い浮かべるかたが多いのではないでしょうか。室生犀星の名前は知らなくても「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しく歌ふもの」の一節はきいたことがあるのでは?
こちらは有名な『抒情小曲集』の小景異情(その二)ですが、同じく『抒情小曲集』の小景異情(その六)より杏をうたった一編をご紹介いたします。

あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝け
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ

ちなみに裏千日町31番地の生家跡には室生犀星記念館が建っています。今回のご紹介はすべて記念館で仕入れた情報であることをおことわり申し上げます。
なお、室生犀星のお話しはたぶん次回に続きます。最後に、犀星が詠んだ「杏」の句をもうひとつ。

あんずあまさうな ひとはねむさうな

ボクもねむそうな。。。ということでまた来週お会いしましょう。おやすみなさい。

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犀星の育った千日山雨宝院(上)
生家跡に建つ室生犀星記念館(中)
室生犀星記念館の庭になる杏の実(下)
[参考文献:室生犀星記念館で見たいろいろ、もらったいろいろ]
[発見日:平成24年7月8日]