金石松原町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【現在の町名】金石北一丁目、金石北三丁目
【感想・雑記】室生犀星は、明治35年(1902年)、長町高等小学校を中退後、13歳にして、金沢地方裁判所に給仕として働くことになりました。そして明治42年(1909年)、19歳のときに石川郡金石町(現在の金沢市金石)の登記所に転任となります。そのさいに下宿住まいしていたのが、金石町の本町23番地にあった宗源寺という尼寺です。その宗源寺は現在、海月寺というお寺(同じく尼寺)になっていますが、今も犀星が住んでいた部屋がそのままなのだそうです。10ヶ月ほどの短い滞在だったそうですが、金石での経験が、「海の僧院」という作品として残っているそうですよ。

さて、なぜ今回、ご紹介が金石本町ではなく金石松原町(かないわまつばらちょう)なのかといいますと、現在、海月寺のある町会名が松原町町会なのです。金石本町と金石松原町の間でいつの頃か境界線の変更があったのかもしれませんね。隣町はたしかに旧金石本町ですので。
以前にもご説明したのですが、石川郡金石町が昭和18年(1943年)に金沢市編入したさい、金石町の町名が金石○○町となって残ることになりました。つまり金石松原町は、かつて石川郡金石町松原町だったということです。金沢の旧市街にも松原町(上松原町と下松原町)がありますので区別する必要がありますからね。

金石松原町は、藩政期から続く町名の多い金石町にあって、明治5年(1872年)の町立てで、比較的新しい町です。金石町の中心地から外れた田畑の広がる町でしたが、中橋駅〜金石駅を結ぶ金石電気鉄道(のちの北陸鉄道金石線)が、大正12年(1923年)に大野港駅まで延伸した際、町内に松原駅(わたしの手元の地図では松原町駅です…)ができ、また近くには製紙会社の工場ができるなどしました。金石電気鉄道については、またどこかでご説明する機会があるでしょう。そのとき詳しくお話ししますね。

ところで、わが母校である金石町小学校校歌の作詞は室生犀星です。短い期間とはいえ若き日々をすごした金石町に、すばらしい校歌を残していただきました。(歌詞はこちらをご参照ください)
そして、昨年(2012年)5月、小学校のすぐそば、金石海岸の埋立地に「金石海原」という新しい町が誕生することが決まりました。この町名は校歌の歌い出し、「海原はわれらの〜♪」にちなんでいるのだそうです。まだ簡易サッカー場と簡易野球場しかない町。まだどこの地図にも町名は出てこない生まれたてほやほやの町です。今後の用途は県や市によ る将来構想検討ワーキンググループで模索中とのことでした。
町の歴史の語り部?として、新しく町が生まれるのはよろこぶべきことなのでしょう。でも、かつての海岸が見る影もなくなってるのはやっぱり悲しいものです。。。なむー。

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海月寺(かつての宗源寺)(上)
新しく生まれた町「金石海原」(下)
[参考文献:金沢市立金石町小学校HP、wikipedia、校歌の花束]
[発見日:平成24年8月11日]