山の上町一丁目

f:id:cho0808:20131006113425j:plain:h400:left【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】山の上町
前回に引き続いて北国街道の話題です。大樋村から「下口の松門」を通って城下に入ると春日町。そのあとに続くのが山の上町です。現役町名ですが、春日町と同じく「丁目」がなくなってしまいました。春日町との境が山の上町四丁目で、城下に近づくにしたがって4、3、2、1です。

さて、北国街道は日本海側の主要な交通路だけに、いろいろなモノや人がこの道を通って金沢にやってきました。元禄2年(1689年)の7月15日に下街道を通って下口の松門から金沢に入ったのが、「おくのほそ道」道中の松尾芭蕉翁と門人の曾良さんです。その日の朝、高岡を立ち、倶利伽羅峠を越えて、金沢に到着したのが未の中刻(午後3時ごろ)。おそらくその足で「春日さん」こと小坂神社に立ち寄り参拝したものと思われます。その記念に(?)小坂神社には「芭蕉翁巡錫地」の碑が建てられています。
芭蕉は、金沢で頭角をあらわしていた小杉一笑という門人に会うのを楽しみにしていたそうですが、その前年の12月に36歳の若さで他界したことをきかされます。そこで、滞在中の7月22日、小杉家の菩提寺である野町の願念寺で開かれた追善会で、
「塚も動け 我泣く声は 秋の風」
という慟哭の一句を詠んだそうです。この句は「おくのほそ道」にものってます。現在、その願念寺には一笑塚という碑が建てられていますよ。なお、芭蕉は7月24日まで金沢に滞在しました。金沢を立つ前日の23日には我がふるさと金石町にも寄ったのだそうです。

ところで、特にすぐれた芭蕉の門人を「蕉門十哲」と呼ぶそうですが、その1人に数えられるのが、立花北枝さんです。小松に生まれ、金沢で住まいを転々としながら刀の研師をしていました。通称は研屋源四郎です。下新町にある久保市乙剣宮のすぐお隣りに住居跡があります。「おくのほそ道」の旅で芭蕉に会い入門したという経歴の持ち主とのことです。「おくのほそ道」では、金沢から越前丸岡まで同行したのだそうです。
この立花北枝さんのお墓があるのが、心蓮社というお寺です。山の上町一丁目のすぐお隣り、旧高道新町にあります。お寺っぽくない名前ですがれっきとした浄土宗のお寺です。慶長17年(1612)に、旧塩屋町※に建立されたお寺で、寛永14年(1637)、現在地に移転しました。庭園が有名なお寺で、市の指定名勝に指定されています。立花北枝さん以外にも、藩政の改革者・寺島蔵人などのお墓のある由緒あるお寺となっています。
じつは今回の「山の上町一丁目」は、心蓮社のお隣りに建つ、光覚寺というお寺にて発見しました。本当は、浅野町でご紹介した小橋町・飴の俵屋さんに関連して、光覚寺の伝説を話題にしようと思って森山界隈を探索してたのですが、前回、今回と思いがけず北国街道と松尾芭蕉の話題をご紹介することになりました。この寄り道・まわり道のブラブラ感こそ、さがす会活動の醍醐味かしら?

最後に「おくのほそ道」の金沢で詠んだ芭蕉翁の有名な一句でお別れです。
「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」
もうちょっと残暑厳しい折にご紹介できればよかったのですが、金沢はいよいよ本格的に寒いです!

塩屋町寛永年間に町ごと移動してますので、この塩屋町は瓢箪町ではなく現在の大手門付近をさします。

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小坂神社「芭蕉翁巡錫地」の碑(上)
野町・願念寺の一笑塚(中)
高道新町・心蓮社の庭園(金沢市指定名勝)(下)
[参考文献:『奥の細道』、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、金沢・てくてくマップ公式HPなど]
[発見日:平成25年10月6日]