西町一番丁

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】丸の内、尾山町
【感想・雑記】今週の日曜日(11月10日)、金沢検定(初級)を受けてきました!上戸彩さんとか、下街道とか、最近取り上げた話題もけっこう出題されましたよ。昨年はあと1点に涙をのんだので今年こそは合格、といきたいものです。

さて、本日ご紹介するのは西町一番丁です。今回は、ひさびさの昭和30年式カマボコ型電柱番号札です。西町は、四番丁がすでにご紹介済みなうえに、実は現役町名なのでした。しかし一番丁については、昭和39年(1964年)に一部が丸の内になり、昭和41年(1966年)には残存区域も尾山町となって消滅してしまいました。
西町=方角+町、といういかにも近現代風行政的無機質地名のようですが、南町、近江町、堤町などとともに、尾山八町と呼ばれる金沢でも最も古い町の一つなのであります。

今回カマボコを発見した西町一番丁の電柱前には、大谷廟所と呼ばれる廟(納骨堂)が建っています。ここには、浄土真宗の第8代蓮如上人の父、存如上人の遺骨が安置されているそうです。大谷廟所が西町一番丁の現在地に建てられたのが明治14年(1881年)だそうですが、江戸時代、この場所には「神護寺」と呼ばれるお寺がありました。
神護寺とは、もともとは固有名詞でなく、神宮寺別当寺などと同じ意味で、神仏習合の思想にもとづいて建てられた、神社付属の仏教寺院のことだそうです。つまり神護寺には本体となる神社があるということで、その神社というのが、西町四番丁1番地(現在は丸の内5-5)の地にある尾崎神社という神社なのです。

神護寺のあった大谷廟所から徒歩3分ほどの場所にある尾崎神社は、朱塗りの社殿が特徴的な神社です。尾崎神社は、藩政期には東照宮(正式には東照三所大権現社らしいです)と呼ばれていて、現在地にもほど近い、金沢城内北の丸に建っていました。
東照宮といえば、なんといっても日光東照宮が有名ですね。いわずとしれた徳川家康公をお祀りする神社です。金沢の東照宮も、「北陸の日光」などと呼ばれて、崇められたそうです。
この東照宮を建てたのは4代藩主の前田光高公です。光高公のお母さんは珠姫(天徳院)ですが、その珠姫のお父さんが2代将軍徳川秀忠で、そのお父さんが徳川家康。つまり前田光高公のひいおじいちゃんが家康公となるわけです。

さかのぼること慶長4年(1599年)、関ヶ原の戦いの前年に藩祖前田利家公がなくなりました。豊臣秀吉亡き後の天下取りの行方定まらぬこの時期、2代藩主の前田利長公は徳川家康より謀反の疑いをかけられることになり、いくさもやむなしとの状況になりました(慶長の危機事件)。そこで利長公は、母のまつ(芳春院)を江戸に人質として送り、また、のちの3代藩主前田利常公と珠姫との結婚を約束することでいくさを回避したのだそうです。ちなみに利常公は8歳、珠姫はなんと3歳でした。

このような、いかにも戦国時代らしいお家事情の関係もあったのか、光高の父である利常公は東照宮の建立に反対で、「光高は若気の至りで要らざることをするわい…」と言ったとか言わないとか。
とまあ、そんな歴史の東照宮でしたが、明治に入って尾崎神社と改称され、現在地に移築されました。また、徳川家康とともに、利常公や天照大神もお祀りする神社となったそうです。
それとともに、西町一番丁の神護寺が廃寺となるのですが、、、この続きはまた次回ということで。

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大谷廟所(上)
尾崎神社(中)
尾崎神社近く(算用場跡)の看板にあった町絵図(下)
[参考文献:ウィキペディア、大谷廟所HP、尾崎神社の看板など]
[発見日:平成25年11月9日]