西町二番丁

f:id:cho0808:20130317160635j:plain:w350 
【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】尾山町
【感想・雑記】前回の予告どおり、西町の続編です。西町二番丁は、一番丁のおとなり筋です。ちょうど大谷廟所の裏側の通りにあたります。二番丁も、一番丁と同じく昭和41年に消滅しましたが、通りには古いカマボコ型の電柱番号札が辛うじて残されておりました。ちなみに、現役町名である西町三番丁と四番丁には「西町」の番号札がありません。代わりにあるのが「中ロ右線」と書かれた暗号の番号札です。市街中心地にわりとよくあるタイプの略字暗号系。電柱番号札もいろんなパターンがあってひとすじなわではいきません…。

さて前回は、東照宮と尾崎神社と神護寺についてお話ししました。明治2年(1869年)に神護寺が廃寺となったのち、その跡地に代わりに作られたのが「致遠館(ちえんかん)」とよばれる英学校です。
英学校のお話しをするまえに、まずは江戸時代の学校(藩校)の歴史をおさらいしておきましょう。以下の情報源は、主にウィキ先生によります。

藩校は、岡山の名君、芳烈公(池田光政)が寛文9年(1669年)に作った岡山学校がはじまりとされるそうです。その後、宝暦年間(1751〜1764年)以降に全国各地に作られるようになりました。有名な所では、米沢藩興譲館会津藩の日新館、水戸藩佐賀藩弘道館熊本藩時習館などなど。金沢では、寛政4年(1792年)に、11代藩主前田治脩(はるなが)公によって、現在の兼六園の敷地内に「文」の明倫堂と「武」の経武館が作られました。明倫堂では儒学・漢学・本草学・暦学など、経武館では剣術・弓術・馬術柔術などを中心に教えられたのだそうです。

そうこうするうちに幕末となり、嘉永6年(1853年)、いやでござんすペリーさんが来航します。この黒船襲来をきっかけに、翌年の嘉永7年、あらたに西洋式兵学を学ぶ、壮猶館(そうゆうかん)という学校が現在の石川県知事公舎あたりに開校しました。また、西町と七尾には軍艦所が作られ、その付属施設として語学所が作られたということです。じつは、七尾語学所や致遠館の開校前にも道済館(どうせいかん)という藩立の語学塾もあったのですが、壮猶館の翻訳方が教授をつとめており、発音なんてどうでもいいという読み書き授業が中心だったため、当時の教師たちからこんなことでは「ドーセ、イカン」と言われてたのだそうです。そんなこともあって、壮猶館の砲術師範であった佐野鼎(かなえ)などによって外国人教師を招こうということになりました。

そのようななかで七尾語学所に招かれたイギリス人の英語教師に、パーシバル・オズボーンという方がいます。オズボーン先生は、オジーさんでもオジンでもなく、当時27歳の若者でした。奥さんは横浜で知り合った小川瀬戸さんという女性です。七尾赴任後には長男のジョージくんも誕生しています。
このオズボーン先生に英語を学んだ中にはすぐれた科学者や政治家が何人もいますが、特に有名なのが高峰譲吉博士と桜井錠二博士です。高峰博士は少し前に映画にもなりましたが、世界ではじめてアドレナリンの抽出に成功した科学者です。タカジアスターゼという胃薬の発明でも有名ですね。また、桜井博士は日本初の理学博士で、理化学研究所の設立に貢献した科学者です。桜井博士の本名は錠五郎ですが、のちに錠二(じょうじ)に改名します。そう、オズボーン先生の長男と同じ名前なのです。七尾語学所時代のオズボーン先生が、サムライ姿で写った写真も残されていたり、ときには語学所の生徒たちと七尾を散策しながら教えることもあったという話しが残っているなど、とにかく熱心な教え方で生徒から信頼をあつめていた人柄がしのばれます。
なお、この七尾語学所は半年ほどで、前述の金沢西町にできた藩立英学校「致遠館」と統合されることになりました。また、オズボーン先生も致遠館に移ってしばらく教えたのち、契約の関係などでたった10ヶ月足らずの滞在で金沢を離れることとなったそうです。

その後、藩校の明倫堂と経武館は、統合されて中学西校に、壮猶館や致遠館は中学東校となり、やがて金沢中学校や石川県専門学校となって第四高等中学校、第四高等学校(旧制四高)へと発展していきます。
また、オズボーン先生はその後岡山藩へ移って英語教師となったあと、横浜で通訳などを勤めるなどして、明治22年(1889年)にイギリスへ帰国、長男ジョージは日本の商社のロンドン支店長にまでなったということです。

というわけで、西町一番丁から二番丁付近にひろがる現在の大谷廟所、江戸時代の神護寺、明治時代の致遠館などについてお話ししてまいりました。次回のこの時間は、明治から戦国にタイムトラベルの予定です。ではまたまた。

f:id:cho0808:20131109161954j:plain:w210 
f:id:cho0808:20131123142232j:plain:w210 
f:id:cho0808:20131116112639j:plain:w210 
西町四番丁で見つけた「中ロ右六線」(上)
柿木畠・広坂にある壮猶館跡(中)
広坂(旧仙石町)の中央公園とレンガ造りの旧制四高校舎(下)
[参考文献:今井一良(1994)『オーズボン紀行』北國新聞社、金沢こども読書研究会(1999)『かなざわ偉人物語2』金沢市立泉野図書館]
[発見日:平成25年3月17日]