上本多町一番丁

f:id:cho0808:20130601124329j:plain:h300:left【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】本多町一丁目、本多町二丁目
【感想・雑記】まだ連載は終わっていません。あしからず。
気づいたら、年も明け、何とソチオリンピックまでも終わってしまいました。男子、スーパー大"開店"休業状態です。

さて、ソチオリンピックが終わって、世間の関心はソチパラリンピック?それともサッカーのW杯でしょうか。個人的には春場所の遠藤関も気になるところですが。。。
お正月恒例の全国高校サッカー選手権の決勝は石川対富山の北陸対決でした。私の職場は富山で、しかもその日は会社の人々と観戦してたので、何とも複雑な感じでした。。。われらが石川県代表の星稜高は残念な結果に終りましたが、同校OBの青きサムライ、本田佳佑選手はイタリアに渡って小学校の頃の夢を見事に叶えることになりました!最近はなかなか苦しんでいる感じですが、まだまだこれから。きっと大活躍してくれることでしょう!

ところで、わが郷土金沢で、サムライのホンダ、といえば、今回ご紹介する本多町の由来となった加賀藩筆頭家老、5万石(大名級!)の本多家、なかでも本多安房守政重なくしては語れません。
本多政重は、徳川家康に親友とまで言われた本多正信の次男です。また、兄の長男正純は家康のふところ刀といわれた人物で、政重はいわば徳川家の側近中の側近にあたります。なお、「徳川に対する謀反の疑いあり」として一触即発状態となった「慶長の危機事件」を企てたのは、政重の父、本多正信ともいわれています。そんな本多政重を家老として迎えることは徳川の隠密を身のうちにいれることであり、秘密が筒抜けになることを意味していますが、2代藩主の利長公はこの提案を飲み、(お家を守るため)親徳川路線をはっきりさせた、とのことだそうです。(磯田道史「殿様の通信簿」より)

ここでようやく町のご紹介です。今回ご紹介する上本多町(かみほんだまち)一番丁は、かつて本多家の下屋敷のあったところにあった町です。下屋敷は、元和元年(1615年)に、本多政重が3代藩主の前田利常公より約10万坪与えられて作られたということですので、じつに東京ドーム何個分でしょうか?
なお、現在の町名も「本多町」なので完全に消滅したわけではありません。かつては上本多町、中本多町、下本多町に分かれていましたが、昭和39年の住居表示実施により、大半が本多町一丁目から三丁目となりました。このうち上本多町は、現在の本多町一丁目と二丁目あたりにあたります。

本多町の北陸放送敷地内には「松風閣庭園」という庭があります。これは本多家のお屋敷の庭で、江戸時代初期に作庭された金沢の指定文化財となっています。長らく一般公開されていませんでしたが、鈴木大拙館の開館に合わせて一部公開されるようになりました。
本多町は、ちょうど小立野台地の崖下に広がる町ですが、崖の上にはかつて本多家の上屋敷があり、そこにあった旧広坂御広式御対面所と呼ばれる建物が、明治40年(1907年)現在地に移築された際に「松風閣」と改称され、庭園も松風閣庭園と呼ばれるようになったとのことです。このあたり一帯は本多の森とよばれる都心のオアシスを形成していますので、癒しを求めにいくのがよいでしょう。

ちなみに、町の名前が本多町とよばれるようになったのは明治4年(1872年)からで、それまでは本多政重が安房守であったことから、「安房殿町(あわどのまち)」とよばれていたそうです。巷では河内守が何やら騒がしいようですが、わたくし個人的には、前田筑前守(利家公、利常公など)のごとく、この1年の間九州筑前国に通いながら進めてきたお仕事がようやく佳境をむかえております。さがす会活動の本格始動まで、もうしばらくお待ちくださいますようおねがいもうしあげます。ではでは。

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松風閣庭園
[参考文献:磯田道史「殿様の通信簿」、金沢市ホームページなど]
[発見日:平成25年6月1日]