上弓ノ町

f:id:cho0808:20140315141424j:plain:h300:left【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】小立野二丁目、小立野五丁目
【感想・雑記】金沢の旧市内にはかつて「弓ノ町」と名のつく町が点在していました。今回ご紹介する上弓ノ町(かみゆみのまち)のほか、中弓ノ町、下弓ノ町、長田弓ノ町、そして何も足さない弓ノ町。いずれもいわゆる弓兵(足軽弓組)が住んでいた組地があったことから名づけられたようです。
このうちの上・中・下のつく弓ノ町は、小立野丘陵の上にありました。天和年間(1681〜1683年)のころからの組地で、藩政期には小立野弓ノ町と呼ばれたそうです。そのうち、上弓ノ町は如来寺組の組地であったとのこと。

如来寺(にょらいじ)は、小立野寺院群のなかでも、前田家ともゆかりのある比較的大きなお寺です。お寺の前は広見になっており、バスの終着駅にもなっています。
如来寺の歴史は、戦国時代末期の天正年間(1573〜1593年)にさかのぼります。越中国の砺波郷(富山県砺波市)に創建され、高岡市二上山金沢市卯辰山へと移転され、現在地に移ったのが明暦2年(1656年)です。4代藩主の前田光高公のご正室であった大姫(清泰院)がなくなられ、その位牌所として八千坪の領地を賜ったそうです。ちなみに大姫(清泰院)は、水戸黄門こと徳川光圀公のお姉さんですよ。
現在、如来寺は知る人ぞ知る石仏のお寺となっています。平成7年(1995年)にはじまった石仏彫りは、檀家、近隣の方ほか希望者はだれでも参加できるお寺の行事です。毎年約50体ほどが開眼供養され、現在は約1000体近くの個性的な石仏たちが並んでいます。穴場的観光スポットですので、小立野寺院群を散策されるときはぜひともお立ち寄りください!

上弓ノ町は、広い範囲が金沢商業高校(金商)校舎の敷地となっています。彦三五番丁六番丁にあった金沢商業学校の木造校舎が、昭和2年(1926年)の彦三の大火で焼失しましたが、すでに上弓ノ町校舎が完成間近であり、急きょ新校舎に移り3日後には授業を再開したとの逸話が残っています。
戦後、金商は一時期、金沢菫台高等学校となりました。「きんだい」と読むのが正式みたいですが、父親世代の人はみな「すみれだい」高校といってます。旧制金沢二中以来の紫錦の丘、小立野丘陵をあらわすとてもステキな校名だと思いますが、10年ほどで、再度金沢商業高校に改称されました。その金沢商業高校の新校舎が昨年度末に完成し、先日、新校舎最初の卒業生が旅立ちました。そして昨日、新たに合格をつかんだ新入生を迎えることとなりました。

ところで、金沢菫台高の卒業生に山出保・前金沢市長がいらっしゃいます。昨年、『金沢の気骨』という本を出版されました。文化都市金沢、そして旧町名復活への思いなどうかがい知ることができ、あらためて山出前市長の偉大な業績に思いをはせることとなりました。

さる3月9日に連載2周年を迎え、山出前市長の思いあらたにこの日記を更新しようと思いつつ、すっかりサボってしまいました。サボりまくってるおかげで長期連載となっておりますが、引き続きだらだらやっていきます。今年も一年よろしくおねがいいたします。
今年こそ5年ぶりの旧町名復活があればいいなあと思っているしだいでございます。

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如来寺の石仏群(上)
上弓ノ町界隈・金沢商業高校の新校舎(中)
「菫台」と書かれたデンデン系の電柱(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)如来寺ホームページ]
[発見日:平成25年6月2日]