三間道

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【消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】野町一丁目、野町三丁目
【感想・雑記】今回カマボコ型電柱番号札でご紹介するのは、三間道です。昭和○年の記述がないのは、反則スレスレのイエローカードですが、カマボコ型の番号札は、これまで全て昭和30年以前のものなので、きっとこれも昭和30年以前のものでしょう。そうだと信じましょう。

三間道は「さんげんみち」と読み、三軒道とも書きます。てっきり、通りの名前だとばかり思ってたら、れっきとした町名でした。由来はかつて家が三軒だったことから、とのことです。旧野町四丁目、現野町一丁目と三丁目の境界線にあたる通りが三間道です。通りを進むと、六斗の広見に遭遇します。
三間道は、一昨年選定された寺町台重伝建地区にあたり、米永仏壇さんや、落雁で有名な諸江屋さんの旧店舗などの伝統建築が軒を並べています。また、六斗の広見に出たところには泉野菅原神社と玉泉寺があります。玉泉寺は、織田信長の四女で2代藩主前田利長公のご正室、永姫こと玉泉院が利常公に請うて建てたもので、玉泉院の位牌所となっています。石川県内では唯一の時宗のお寺、「踊り念仏」の時宗ですよ。中学生で習いましたね。広大な敷地に大伽藍のあるお寺だったそうですが、明治4年(1871年)に焼失して、今は小堂やお墓が残るのみです。

三間道は、古地図を見ると、メインの通りだけでなく、裏通りも含めた一帯を指す町名らしいです。ちょうどその三間道の町内にあるのが、今年の3月で惜しまれつつ閉校した金沢市立野町小学校です。現在は泉小学校の仮校舎となっています。
野町小は明治5年(1872年)創立で、142年の歴史をほこる伝統校でした。かの文豪、室生犀星の母校でもあります。創立時の校名がスゴイ!「二大学区第一中学区壱番小学校第八区野町元区学校」といいます。この「壱番小学校」であることは、校下、地域の誇りでもあるようです。現在も、教育委員会が学校に振る「学校番号」というのがあり、野町小は1番だそうです。(泉小が1番を継承)

金沢では、学区・校区のことを「校下(こうか)」と呼び、単なる通学区域を表すだけにとどまらず、町会や地区消防などの自治組織の単位、地域コミュニティのひとつのまとまりを表す単位ともなっています。明治から大正にかけての、校下の成立以前には「連区」というまとまりがありました。一連区から七連区まで、人口約2〜3万人、町数約80前後のまとまりだったそうです。このうちの一連区は、現在の野町・中村町・十一屋校下にあたります。ここでも野町校下が一番なのです。

以下、興味のある方のご参考に、かつての連区と校下の対照を記述します。

一連区=野町・中村町・十一屋校下
二連区=新竪町・菊川・長町校下
三連区=石引町(小立野)校下
四連区=味噌蔵・材木町校下
五連区=芳斉・松ヶ枝・長土塀校下(一部、長町校下)
六連区=瓢箪町・此花・諸江町校下
七連区=馬場・森山・浅野町校下

ちなみに、愛知県一宮市瀬戸市豊川市などでは、校下をあらわす用語として「連区」が使われています。貴船連区、祖母懐連区、御油連区などなど。この連区も、単なる通学区域を超えたまとまりを表すもののようです。

このように、文豪室生犀星の母校にして、一連区、壱番学校の野町小閉校は、校下の方々、行政ともども、まさに苦渋の決断であったと思います。怨むなら少子化を恨め、ということでしょうか。今後も伝統校の閉校・廃校の噂が絶えませんが、どうか、できうる限りの歴史・伝統の尊重と、地域住民の意向を反映した最良のご配慮をねがうばかりでございます。

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落雁で有名な諸江屋さん(上)
玉泉院の位牌所・時宗寺院「玉泉寺」(中)
壱番学校の野町小学校(泉小学校)(下)
[参考文献:真鍋知子「金沢市のコミュニティ:校下と町会」(2008)、北國新聞(平成26年3月28日)、『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、HELLO!!138瀬戸市ホームページ豊川市ホームページ
[発見日:平成26年6月8日]