五寶町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】安江町、笠市町、瓢箪町
【感想・雑記】この時期、浄土真宗の寺院では、報恩講(ほうおんこう)で大忙しです(でした?)。報恩講は、宗祖である親鸞聖人の亡くなった11月28日に合わせて行われる法要行事です。親鸞聖人のご威徳をしのび、そのご恩に感謝する日とされており、真宗王国ともよばれる北陸の地ではさかんであるといわれています。金沢では「ほんこさん」とよんで、かぼちゃ、里芋、にんじん、こんにゃくなどを、甘くない小豆と煮た「いとこ煮」を食べる風習があります。煮えにくい野菜から追い追い足しながら入れていくことから「甥・甥」にかけて「いとこ」なのだそうです、と以前にも同じ記事を書いた気がしますが。。。

なお、さきほど11月28日と書きましたが、これはあくまで「お東さん」の場合です。「お西さん」では、親鸞聖人の亡くなった弘長2年(1263年)11月28日がいまの暦で1月16日にあたることから、この1月16日にあわせて報恩講を行ないます。
ちなみに、「お東さん」とは、浄土真宗の一派で真宗大谷派とよばれます。わが家はお東さんです。対して「お西さん」は浄土真宗本願寺派とよばれています。本山がそれぞれ京都の東本願寺西本願寺であることに由来した呼び方です。(東本願寺西本願寺のよび方は通称です)

教団分裂の歴史は、戦国時代にさかのぼります。浄土真宗第11代の顕如上人は、大阪(大坂)の石山本願寺を舞台にした、織田信長との10年にもおよぶ全面戦争の末、天正8年(1580年)に和議を結びます。その後、和平派に転じた顕如上人と三男の准如上人に対して、依然として抗戦派であった長男の教如上人の跡継ぎ問題が勃発します。石山本願寺を退去後、父顕如は秀吉公より京都の七条堀川の地に寺地を与えられると移転し、弟の准如上人が本願寺の世継ぎとなります。それに対して、隠居生活を余儀なくされていた兄の教如上人は、慶長7年(1602年)家康公に、本願寺のすぐ東、七条烏丸の地を寄進され東本願寺が成立、これにより本願寺が東西に分かれることとなりました。すぐ至近の場所に寺地を提供するなど、家康公の政略があるように思われますが、真相はいかに。

ということで、本日の町名「五寶(宝)町」です。読み方は「ごぼうまち」です。明治4年からの町名で、藩政期には西末寺町(にしまつじまち)や西御坊町(にしごぼうまち)などとよばれていました。御坊→五宝の当て字ですかな。名前のとおり、西本願寺の別院である西別院の付近の町立て、現在は笠市町、瓢箪町、安江町にまたがる割と広い町域ですが、見つかったのはデンチュウのこれ一枚です。瓢箪町校下のデンチュウは、「中ロ」とか「中左九」とか旧町名でないものが多く、辛うじて見つかった一枚なのです。江戸時代は西別院、東別院はそれぞれ西末寺、東末寺と呼ばれていたそうです。そういえば、うちの亡くなったばあちゃんが、東別院のことを「おまつっさん」と呼んでましたが「お末寺さん」が転じたものだったのかもしれません。

ところで、五寶町の入口には、金沢でも有名なすき焼き屋さん「長谷川亭」があります。ここには藩の御大工で高岡の国宝、瑞龍寺を立てた山上善右衛門のお屋敷があったそうです。忘年会のこの時期、ちょっと奮発して美味しいすき焼きでも食べながら、金沢の町の歴史に思いをはせるのもいいと思いますよ。

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本願寺 金沢西別院(上)
西別院山門前「中ロ」線デンチュウ(中)
山上善右衛門屋敷跡に立つすき焼き屋(下)
[発見日:平成27年12月6日]