下石引町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【復活した年】平成12年(2000年)
【現在の町名】石引四丁目、下石引町1番1号
【感想・雑記】 「主計町」のご紹介からはじまったこの日記も、めでたく4周年を迎えました。今回は、ミレニアムイヤーにお隣りの飛梅町とともに旧町名復活を遂げた下石引町(しもいしびきまち)をご紹介いたします。といっても残念ながら旧町名復活後のシロモノです。ごめんなさい。
下石引町は小立野台地の上、兼六坂(尻垂坂)をのぼってすぐの町です。下石引町のほかに上石引町、中石引町がありましたが、残りの町は復活していません。昭和39年(1964年)に石引町は周囲の数多くの町を飲みこんで、石引一丁目から四丁目になりました。石引町の由来は金沢城の石垣を築くため、戸室山から切り出した石(戸室石)を引いて運んだ道筋であったことから名づけられました。戸室石は御留石と呼ばれて一般の採掘が禁止された高級石だったそうです。今では石焼き芋の石としても有名みたいですね。

とりあえず見事復活を果たした下石引町なのですが、実は「下石引町1番1号」しかないのです。日本全国、1番1号しかない町というのはほかにはないんじゃないでしょうか。この下石引町1番1号には、独立行政法人国立病院機構金沢医療センター(かつての国立金沢病院)が建っています。もともと下石引町は、両側町(道の両側が同じ町)でしたが、お向かいの区画は、いまだ石引四丁目のままとなっており、完全復活は果たしていないのです。

この金沢医療センターというのは、明治から第二次大戦までは陸軍病院だったのですが、昭和20年(1945年)に厚生省に移管されて国立金沢病院となりました。前身の陸軍病院は、明治32年(1899年)、加賀八家の奥村家宗家の上屋敷があったところに建てられました。今も金沢医療センターのまわりには、奥村家のお屋敷の名残をとどめる長い土塀で囲まれており、趣ある風情をかもし出しております。

ところで、この金沢医療センターの土塀の前を水路が流れていますが、この水路は辰巳用水とよばれる用水です。これまで、大野庄用水(御荷川)や鞍月用水(せせらぎ通り)をご紹介してきましたが、用水の町金沢にあって、辰巳用水はまちがいなく横綱ともいえる存在です。総延長11kmのうち上流約8kmは国指定史跡に認定されており、玉川上水、深良用水(箱根用水)とともに日本三大用水ともいわれているくらいです。

辰巳用水は、寛永9年(1632年)に3代藩主の前田利常公の命により、板屋兵四郎によってわずか1年という短期間で造られました。用水は、犀川の上流で、金沢城からみて辰巳(南東)の方角にある上辰巳村(現金沢市上辰巳町)から取水して、金沢城下に水を供給する役割を果たしていました。そのきっかけとなったのが前年の寛永8年(1631年)に起きた「法船寺焼き」とよばれる大火です。宝船路町でご紹介した、義猫塚で有名な法船寺の門前から出火し(一説には放火とも)、金沢城下はおろか、城内の殿閣も焼き尽くしたといわれています。この火事をきっかけに、利常公は城下の防火目的として幕府に許可を得たとのことですが、利常公の本当の目的は、金沢城内の飲料水を確保することと、惣構のお堀を水で満たすことにより城の防備を固めることだったようです。この寛永8年は、加賀藩最大の危機といわれる寛永の危機が起こった年で、徳川幕府との対立が決定的となっており、利常公にはちょうどよい口実だったかもしれません。

さて、この大工事を指揮した板屋兵四郎さんですが、その素性は謎が多いようです。小松の町人とも大阪の出身ともいわれ、生没年不詳です。和算や測量の知識にすぐれた板屋兵四郎は、経緯は不明ながらも辰巳用水開削の大工事の責任者に抜擢され、その技術力の高さを存分に発揮します。4kmにわたる手掘りのトンネル(隧道)はいまだ現役で、もろい地盤を避けて屈曲しながらも水量や流速を計算しつくした勾配や水路設計がなされているとのことです。なかでも兵四郎の技術の高さを物語るのが、伏越の理(ふせこしのことわり)という逆サイフォンの原理をつかって、百間堀の谷間を隔てた金沢城二の丸に水を送りこむ技術でした。小立野台地を流れてきた辰巳用水は、いまの兼六園のある高台から10m下の堀の導水管にいったん水を落としたあと、その高低差と水圧を利用して、お堀より8m高い二の丸に水を送り込むことに成功します。当時としては画期的な工法だったでしょうね!
なお、辰巳用水とは直接関係ありませんが、兼六園にある噴水は同じく伏越の理を利用しており、ポンプやモーターなどの動力を使わない自然の力の噴水だそうで、日本最古の噴水といわれています。

こうして、1年という短期間で辰巳用水を完成させた兵四郎さんでしたが、軍事機密や技術の漏洩を恐れた加賀藩によって暗殺されたという説があります。真偽のほどは不明ですが、祟りを恐れてなのか、はたまたその業績を讃えてなのか、板屋兵四郎は神格化されて、辰巳用水の取水口近くの上辰巳町と、その少し先の袋板屋町に板屋神社が建てられておまつりされています。また、兼六園内にある金沢神社からは板屋神社の遥拝所が設けられているとのことでした。

以上、石引町というよりも辰巳用水と板屋兵四郎さんの物語でした。石引町については、中石引町か上石引町が見つかりしだい、詳しくお話しするかもしれません。
ところで辰巳用水や惣構のお話しは、ブラタモリでもやってたそうですね。わたしブラタモリの新シリーズ、金沢の回だけ見逃してるのです。残念。

5年目に突入するこの日記も、ブラタモ同様、しばらくのお休みを経てわりと順調に連載続けております。引き続きよろしくおねがいいたします。

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金沢医療センターの土塀と辰巳用水(上)
伏越の理を利用した日本最古の兼六園噴水(中)
上辰巳町の板屋神社(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見、水土の礎
[発見日:平成28年2月20日