蛤坂町

f:id:cho0808:20160131114506j:plain:h350:left【消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】寺町五丁目、野町一丁目
【感想・雑記】目で見るだけが旧町名じゃないよ。心で読めばきっと読める旧町名です。心で読めば、ほーら浮かび上がる蛤の文字。。。?肉眼では決して読めません!
とにかく、文化庁の古文書解析技術ならまだしも、iPhoneの写真加工ではどうにもならないレベルです。ギリギリ肉眼で読めるのは特徴的な字体の「金澤(沢?)」の文字ぐらい。しかしこのフォント、芳斎町味噌蔵町東丁山の上町二丁目高道新町河原町などのフォントと類似しています。「金」のかさ部分が「ム」な感じの頂点に両脇点2つで、「玉」がほぼ「土」の感じとか、「澤」の偏が行書体になってて、旁が「ム」+「手」みたいな感じとか。(イメージ伝わってるかしら?)
ゆえに、これは明らかに時代考証上、旧町名にしかみられないフォントだとガクジュツ的に結論づけられるわけです。あとはひたすら蛤探し。潮干狩るか、信じる心で読むか、文化庁に依頼するしかないでしょう。。。

さて、強引に発見したことにして、蛤坂町(はまぐりざかまち)のご紹介に入ります。蛤坂とは、犀川大橋南詰の交差点から寺町台にあがる坂の名称です。でもって、蛤坂町は蛤坂の下から、坂上にある寺町の忍者寺の手前まで続く町立てです。蛤坂の由来は諸説ありそうですが、かつて妙慶寺坂と呼ばれたせまくて急な坂道だったのが、享保18年(1734年)の大火のあとに道が拡張されたときに、焼けて口を開いたという意味で「蛤坂」と俗称されるようになった、という説が一番あってる気がします。(説は角川日本地名大辞典に記載の説などによる)。「蛤に見える説」もあるけど・・・見えないよ!

【蛤坂町の正しい楽しみ方講座】
突然ですが、蛤坂町の楽しみ方講座の時間です。我々から楽しい旅のご提案です。
1.山錦楼を愛でる。
大正11年(1922年)建築の歴史を感じる美しい建築物です。ちなみにこの建物は今でも現役の高級料亭です。
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2.妙慶寺を参拝する。
妙慶寺坂の由来となった浄土宗寺院です。天狗の守るお寺といわれています。松平家菩提寺で、幕末の加賀藩家老、松平大弐のお墓や石碑があります。松平大弐さんは、蛤御門の変(禁門の変・平治の変)で、幕府派の薩摩藩会津藩新撰組等と尊攘派(反幕府派)の長州藩とが武力衝突した際に、14代藩主の前田慶寧公が京都御所警護の任務を放棄して近江海津の加賀藩領地に退去したために長州藩との内通の疑いを受けたことから、その責任を取る形で自害しました。禄高上、第一家老であった山崎庄兵衛は放免されたことから「第一に死ぬべき者が死なずして大弐が死んで何と庄兵衛」という落首が流行ったとか。(出典:「市民が見つける金沢再発見」より)
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3.寺町追分の道標を見つける。
「右つるぎ道、左のだ道」と書かれた道標です。蛤坂交差点は、野田山に向かう野田往還と鶴来へ向かう旧鶴来街道の分岐点で、寺町追分ともいわれます。野田往還は前田家墓所のある野田山への墓参のため整備された道です。鶴来街道は蛤坂町を起点としてしらやまさんのある鶴来町方面へと向かうご参詣道です。ちなみに「のだ」の文字は風化して読めません。
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4.お土産屋さんに立ち寄る。
忍者寺参道のお土産屋さんで、昭和のヤンキー御用達のファンシーninjaグッズに昭和を感じましょう。ていうか、今でも売ってるのでしょうか?木刀とかshinsen-gumi的なファンシーアイテムの数々。ちなみに忍者寺そのものは、蛤坂町ではなく泉寺町になります。
5.自転車で蛤坂をかけのぼる。
自転車で坂をかけのぼろう!犀川大橋の交番手前から、信号が変わったと同時に自転車で交差点をわたって蛤坂をかけのぼると、坂上の蛤坂交差点を信号ギリギリで渡れます。蛤坂町を一気にかけぬけ、山錦楼も妙慶寺も道標も全て無視の全速力。もちろん立ちこぎです。高校時代のわたしの楽しみ方、というか遅刻ぎりぎりのわたしの日課。。。
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6.肉眼で読める蛤坂町をさがす。
発見したらご一報ください。

金沢市指定保存建造物の山錦楼(1の写真)
浄土宗・安養山妙慶寺(2の写真)
寺町追分の道標(3の写真)
実に走りたくなる蛤坂(5の写真)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、市民が見つける金沢再発見、いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成28年1月31日]