木曽町

f:id:cho0808:20180519001540j:plain:w450 
【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】東兼六町、扇町
【感想・雑記】木曽路はすべて山の中である。ごぞんじ、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭ですが、今回ご紹介する木曽町(きそまち)の由来は、まさにこの木曽路にあります。現在は、大半が東兼六町の一部であることからということからもご想像のつくとおり、金沢の一大観光地、兼六園の東側、最短だと徒歩10分ほどのところに位置する町ですが、景色はさながら、山の中です。
旧木曽町は、材木町から小立野台地をのぼる坂の途上に位置しておりますが、町を流れる源太郎川の渓流や趣きが、信州の木曽路に似ていることから、この坂を木曽坂と呼ぶようになり、明治5年(1872年)には、町名も木曽町になったのだそうです。

ちなみに、木曽坂をのぼりきったところにある町が、「白い巨塔」とともにご紹介した百々女木町です。ちょうど上百々女木町下百々女木町の町境あたりに出ますよ。なお、渋谷から電車で約20分、東京23区唯一の渓谷といわれる等々力渓谷と同じく、川がどうどうと流れる轟音が「とどろき」や「どどめき」の由来だそうです。「轟」は「とどろき」とも「どめき」(えちぜん鉄道勝山永平寺線の駅名にあります)とも読みますね。

と、ここまでしれーっと掲載写真のことに触れずにきましたが、どう見ても失われた当時の町名のものではございませんので、明らかにずるをしているのは明白です。申し訳ありません。掲載した案内図をもとに木曽町をくまなく歩き回りましたが、残念ながら、失われる以前のものを発見するには至りませんでしたので、以前から発見してたこれを掲載する決意をいたしました。
それにしてもこの案内図、「東兼六町(旧木曽町) 町会案内図」とありますが、現在の東兼六町は旧木曽町だけではありません。木曽町のほかにも、成瀬町、飛梅町、ハ坂、小尻谷町、下百々女木町、小将町三番丁、材木町一丁目、二丁目の旧町名からなる町であり、そもそも東兼六町町会という町会はありません。また反対に、旧木曽町も、一部は扇町になっているので「東兼六町(旧木曽町)」という書き方は、必要条件も十分条件も満たさぬ不正確な記述であることになります。
しかしながら、木曽町のあまりの見つからなさ、そしてこの案内図から、東兼六町(旧木曽町)がこのように語りかけてきているような気がします。

やれやれ。きみは僕の昔の名前なんて興味はないかもしれない。でも僕は「木曽町」に愛着はあるし、今の僕を形作る何かでもある。ただ、ひとつだけ言いたい。信州や美濃からの借り物である「木曽」という名前にほんの少し、後ろめたい思いも感じてきたのも事実なんだ。だから今は金沢らしい「兼六」の仲間に入ってしあわせな気分だし、僕自身が東兼六町だとすら思ってる。それは、かつて僕の一部分だった扇町奴らも認めてくれるはずだ、とね。

・・・本当に町の声が聞こえるようになったら病気です。あくまでふぃくしょんですのでそこのところひとつよろしく。

f:id:cho0808:20180318165116j:plain:w210 
f:id:cho0808:20180318161148j:plain:w210 
f:id:cho0808:20180428180712j:plain:w210 
木曽坂の電池番号札(上)
木曽路に似てるのか?木曽坂の木曽町界隈(中)
源太郎川の渓流と轟音(下)
[参考文献:高室信一『復刻新版 金沢・町物語』能登印刷出版部(2013年)]
[発見日:平成30年3月18日]