山田屋小路二番丁

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【消滅した年】昭和39年(1964年)?
【現在の町名】幸町
【感想・雑記】この日記を読んでくださっているみなさま、お久しぶりです。この春、はてなダイアリーというブログサービスが終了し、同じ会社のはてなブログというサービスに統合されることになりまして。実ははてなブログへの引っ越しは完了し、すでに記事も1本更新していたのですが、はてなダイアリーから自動でジャンプしてくれるリダイレクトという設定を忘れたまま、ダイアリーの記事が一切更新もなにもできなくなってしまい、今日に至るわけですが、つい先日、はてなの方が自動でリダイレクト設定をしてくれたおかげで晴れて公開できるようになりました!
コメントいただいていた方、大変申し訳ございませんでした。遅ればせながらようやくご返信させていただきました。

さてさて、そんなわけで、はてなダイアリーと同じように、この春惜しまれつつ幕を閉じたのが、金沢市立新竪町小学校と金沢市立菊川町小学校です。そしてはてなブログと同じように、金沢市立犀桜小学校に統合されて新たなスタートを切りました。
今回は、ブログのリニューアル、新たなスタートということで、同じ境遇にある犀桜校下(正しくは新竪町校下ですね)の旧町名から、山田屋小路二番丁をご紹介したいと思います。

新竪町校下といえば、金沢の牛込地区とわたしが名付けた、古くからの町名が数多く残存する地区です。牛込地区とは東京都新宿区、かつては東京市牛込區だったエリアです。昭和39年(1964年)前後からはじまった住居表示制度によって大量に町名が消滅するなかで、旧牛込区の一帯は住居表示されずに昔の町名が残りました。同じように、新竪町校下のなかでも本多通りをはさんだ北西側の一帯も、牛込地区のように住居表示が実施されず、藩政期から続く町名が数多く残っております。
新竪町(三丁目のみ)枝町川岸町、中川除町、里見町、竪町、鱗町、水溜町、杉浦町、茨木町、池田町、十三間町、油車、下本多町(五番丁、六番丁)などなど。しかしながら、今回ご紹介する山田屋小路は、本多通りの南西側に位置していたため、幸町となって昭和39年に消滅してしまいました。

山田屋小路は「やまだやしょうじ」と読みます。そのまんまです。一風変わった町名は、藩政期から数代にわたって町内に住んでいた「山田屋」という魚屋さんに由来するそうです。おそらく通りの通称として長い間呼ばれていたものと思いますが、正式に町名となったのは明治5年(1872年)です。2つの通り(筋)があり、それぞれ一番丁と二番丁となりました。よっぽど大きな魚屋だったんでしょうね。
…とここまで、消滅した昭和39年よりも後の昭和42年と書かれたデンリョク系電柱番号札をそしらぬ顔で掲載したうえに、山田屋小路を旧町名だと断定して説明をしてきました。ところが実は、よく分からない問題が起こっていたのです。

謎その1。金沢市の公式ホームページ、「いいね金沢」にはなぜか山田屋小路一番丁は旧町名としてリストアップされているのに、山田屋小路二番丁はリストアップされていません。二番丁は旧町名じゃないってこと?

謎その2。石川県版の『角川日本地名大辞典』にも、山田屋小路二番丁は世帯数ゼロの現役町名として記述があります。この辞典は1981年の出版なので、少なくとも1981年までは、二番丁だけが存在していたことになるのです。そこでわたしは図書館で、山田屋小路が消滅したはずの1964年頃から、現存していたはずの1980年頃に至るまでの住宅地図を、あるだけ手当たり次第探してみたのですが、、、やはりどこにも見当たりません。もちろん、現在グーグルマップをみても、山田屋小路二番丁は見つかりません。はてさて地図上見つからない山田屋小路二番丁は、本当に消滅していないのでしょうか?新竪町校下で旧町名が多数残っている本多通りの北西側、山田屋小路二番丁の延長線上からいえば、新竪町小学校(今は犀桜小学校の仮校舎として使っています)の校舎かグラウンドの下あたりにひっそり残っているのかもしれません。徳川埋蔵金のように、掘れば山田屋小路二番丁が出てくるのかしら?
ともかくまあ、私には見えるという霊感の強い方がいらっしゃればご一報いただけますと幸いです。ではではまた。

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山田屋小路二番丁の小路(上)
山田屋小路二番丁が眠るはずの金沢市立犀桜小学校仮校舎(新竪町小学校校舎)(中)
山田屋小路が見える方はご一報ください(下)
[発見日:平成30年7月10日]