【福岡市】山荘通三丁目

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【わりと消滅した年】昭和47年(1972年)
【現在の町名】山荘通三丁目、平尾四丁目、平尾五丁目
【感想・雑記】年またぎの福岡シリーズも今回が最終回です。大河ドラマも年またぎを経て、昨日ようやく最終回を迎えました。いやーおもしろかった。次週より大河ドラマは戦国から幕末へ、ということで、福岡出張シリーズおまけの最終回も便乗して戦国から幕末に舞台をうつしたいと思う所存でございます。

今回ご紹介するのは、前回と同じく福岡市中央区の住居表示未実施の3町のひとつ、「山荘通三丁目」です。つまり現役町名で正確には旧町名ではありません。読み方はそのまま「さんそうどおり」です。場所は、中央区平尾の閑静な住宅街にわずかに残った町域です。町の近くには、かつて中洲にあった玉屋百貨店の創業者、田中丸善八さんの邸宅跡(松風園として公開されています)などもある高級住宅街で、全く山の中の雰囲気はありません。なのに「山荘」ってどういうわけなんでしょ?まあこちらの説明はのちほど。

とにかくもまあ、山荘通三丁目ですよ。一丁目と二丁目は昭和47年に消滅したにもかかわらず、三丁目だけが一部残ってるんですよ!そう!金沢と同じなんです!すでにご紹介済みの新竪町三丁目観音町三丁目などの仲間が、遠く福岡の地で見つかりました!
山荘通三丁目が残った理由には、おそらく山荘通りの町の名に愛着のある地元のみなさまの声があったのでしょう。その地元の方に愛される山荘通りとは一体なんでしょうか?中央区の閑静な住宅街にある町なのに、なぜ「山荘」なのか?

ということで、ようやく山荘通(り)の町名の由来ですが、かつての町内で、現在は平尾五丁目にある「平尾山荘」という史跡に由来します。観光客でも訪れる人はあまり多くないのではないかと思われる、知る人ぞ知る歴史スポットなのです。住宅街のなかに突如として現れるひなびた草庵風の史跡が平尾山荘なのです。
この山荘は、野村望東尼(ぼうとうに、またはもとに)という幕末の女流歌人が暮らした住居跡なのです。
この野村望東尼さん、ただの歌人ではなく、勤王家、つまり尊王攘夷思想を持った女性で、この平尾山荘で何人もの勤皇の志士をかくまったり、密会の場所を提供したりしたのだそうです。その志士のなかでも特に有名なのが高杉晋作で、のちに望東尼が姫島へ流刑になったときに脱出の手引きをしたのも晋作なのだそうです。
病に倒れた晋作の死の床で、かの有名な辞世の句に下の句を付けたのが野村望東尼といわれています。(辞世の句というのには諸説あり)
コロナ禍の自粛生活で、何かと心晴れないご時世ではありますが、そんな2021年の最初の日記にふさわしい句だと思いますので、高杉晋作辞世の句とともに福岡出張シリーズ、おまけの最終回をしめたいとおもいます。句の意味がわからない人は調べてね。

おもしろき 事もなき世に おもしろく
すみなすものは心なりけり

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松風園(田中丸善八邸)(上)
平尾山荘(中)
野村望東尼像(下)
[参考文献:松風園でもらったパンフレット、Wikipedia(野村望東尼)]
[発見日:令和2年9月20日