中主馬町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】菊川一丁目、菊川二丁目
【感想・雑記】ファッションタウンの竪町商店街をぬけ、新竪町商店街も抜けてひたすら前進あるのみ。迷わず行けよ、行けば分かるさ。ちょうどどんつきのあたりに「旧主馬町」の標柱が見つかるでしょう。そして、かつてその近くで見つけたはずの「中主馬町」の表札でしたが、先週末久々にこの界隈を訪れてみたのですがどうしてもこいつを見つけることができませんでした。また一つ、大切な旧町名の遺構が消えてしまったのでしょうか。。。

「中主馬町」という名前からお分かりのとおり、「上主馬町」と「下主馬町」もありました。あと、ちょっと変化球的な「主馬町広丁」という町も主馬町セットでしたが、全て昭和39年(1964年)の東京オリンピックの年に消滅してしまいました。
上中下と広丁に分かれたのは明治4年(1871年)ですが、江戸時代には主馬町、主馬殿町と呼ばれていました。主馬「殿」というくらいですから、お侍さんの名前に由来する町名で、大阪夏の陣にも出陣した本庄主馬という鉄砲隊の武士の邸宅があったことからこの町の名前になったそうです。

本庄主馬は拝領1,800石ほどなのでそこまでのご身分ではないお侍さんなのですが、嫁が有名なんです。正確には嫁のお父さんが有名なんです。嫁のお父さんの名前は篠原一孝、そう、前回ご紹介の出羽町の由来となった城普請の名人、篠原出羽守なんです。そしてもうひとつ有名なのが坂なんです。主馬が結婚するときに、出羽守の屋敷のあった出羽町と、主馬の屋敷のあった主馬町の間の坂道を切り拓いたことから「嫁坂」と呼ばれて令和の現代にも残っているんです。町の名前は消えても坂の名前は消えない。そんな感じなんでしょうか。。

さて、中主馬町といえば、この町で生まれた永井柳太郎さんをご紹介しないわけにはいかないでしょう。
永井柳太郎は、大正から昭和にかけて活躍した政治家で、逓信大臣や鉄道大臣を務めました。明治14年(1881年)、貧しい小学校教員の家に生まれましたが、志高く、石川尋常中学(現在の泉丘高)から同志社中、関西学院普通学部をへて早稲田大学に入学。雄弁会に所属し、その演説が大隈重信にも認められてオックスフォード大学に留学したというからすごいですよね。政治家になってからもその演説が有名で、初めての選挙で落選した際に、ジュリアス・シーザーの勝利宣言「来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Vici)」をもじって「来たり、見たり、破れたり」と演説したとか、初当選のとき、大勝を収めた原敬内閣に対して、その独裁ぶりをレーニンにたとえ、「西にレーニン、東に原敬」と演説して懲罰を受けたとか、演説にまつわる語録が残っています。
そんな永井柳太郎の生家が、金沢の奥座敷湯涌温泉郷にある「湯涌江戸村」に移設されて現存しておりますので、ぜひ本当に状況が落ち着いたら湯涌温泉とともにぜひ金沢にいらしてください。なお、永井家の跡地は永井善隣館となり、永井の銅像が建てられています。

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出羽町と主馬町をむすぶ嫁坂(上) 
湯涌江戸村に移設された永井柳太郎生家(中)
永井善隣館にある永井柳太郎の銅像(下)
[参考文献:ウィキペディア
[発見日:平成24年5月20日