安江町

f:id:cho0808:20210504114948j:plain:w350 
【消滅した年】現存
【住居表示実施した年】昭和40年(1964年)
【現在の町名】安江町、本町一丁目
【感想・雑記】安江町は現存町名ですが、今回ご紹介した表札はもう見ることができません。町名は現存ですが、住居表示前の番地表示かつ、横書き逆向きかつ、電話番号が局番なし4桁かつ、10が拾なのでおそらく戦前のものと思われる貴重な表札です。町名は現存ですが、発見した建物は武蔵地区の再開発の波に耐えきれず、平成の終わりとともに消滅してしまいました。一帯もろとも取り壊され、現在、高層マンションが建設されています。
一帯もろとも取り壊されたなかには、立派な町家建築の紙屋さんや、古い写真館のビルや、知り合いのお豆腐屋さんや、高校生のときに人生で初めて思春期男子が読みたくなるような雑誌を買った雑貨屋さん?タバコ屋さん?がありました。

さてさて、現存する安江町ですが、読み方は「やすえまち」ではなく「やすえちょう」です。この安江町、住居表示前の安江町と現在では町域が全く異なります。かつての安江町は、白銀町交差点から武蔵ヶ辻に至る通り沿いの、安江町交差点付近だけの小さな町でした。それが昭和40年の住居表示により周囲の裏安江町一番丁、二番丁、横安江町の全域と、袋町、象眼町、巴町、五宝町鍛冶町彦三七番丁、八番丁の各一部を飲み込んで巨大化しました。
安江町の由来は、中世の頃にあった上安江村に由来するそうです。金沢五社の一つ、安江八幡宮も同じ由来ですね。江戸初期には安江木町と呼ばれ、宮腰(現在の金石地区)の港から運ばれる材木の集散地であったことにちなむ、だそうです。とまあ、歴史ある安江町という名前が残ってめでたしめでたしでした、とは終わらないのが旧町名をさがす会金沢支部です。お話しはもう少し続きます。

かつての安江町で、現在は本町一丁目の一画に、小さなピラミッドみたいな不思議なオブジェが2〜3年前頃から作られてて、あれなんだ?といぶかしく思っている金沢市民もおられるかと思います。ちゃんとオブジェの前に立って、看板の説明文を読めば分かるのですが、それすらめんどくさいあなたのために解説しちゃいましょうー。

あのミニピラミッドは、升形と呼ばれる
防御施設の土居(土塁、土手)の一部を再現したものです。土居の前にはお堀も再現されています。ここは、ちょうど城下町の出入口にあたり、宮腰の港へ向かう交通の要衝だったため、升形には門が設けられていたとのこと。ちなみに升形は、鍵の手とも呼ばれ、防御の手段として道を直角に曲げて敵を追い詰めやすくしたものだそうです。

ところで、堀と土居で城の防御を固めたものといえば惣構だよね、と気づいたあなたはそこそこ金沢通。この日記でも何度かお話ししたことあります(例えばこの回とかこの回とか)。この升形は、ちょうど西外惣構と宮腰往還と接続点にあたります。
ご存知ない方や過去の日記を読むのがめんどくさい方むけに惣構の復習です。利家公の死去後、徳川家との関係が悪化し、一触即発となった慶長4年(1599年)のいわゆる「慶長の危機」ですが、このとき利長公がキリシタン大名高山右近に命じて作らせたのが内惣構、さらに慶長15年(1610年)に篠原出羽守一孝に作らせたのが外惣構です。それぞれ総延長2.9キロと4.2キロの二重の惣構で囲まれた金沢城下は、堺などと並ぶ環濠都市と言われています。高山右近と篠原一孝、2人の築城の名人、土木のプロが作った惣構は現在、土居こそなくなったものの、お堀は令和の現代にも用水などの一部として残り続けております。
なお余談ですが、「升形」は文政6年(1823年)には、安江木町から分立してこのあたりの町名にもなったそうです(明治4年に安江町に編入)。また、ほど近くにあった旧弓ノ町も、升形弓ノ町と通称されています。

以上、コンクリ作りのへんなピラミッド型オブジェですが、実は金沢がかつて環濠都市であったことの名残を伝える遺構の復元ということをお伝えし、2ヶ月越しの篠原出羽守ゆかりの町三部作とともに、現存町名の安江町のご紹介を終えたいと思います。ご静聴ありがとうございました。

f:id:cho0808:20180318153642j:plain:w210 
f:id:cho0808:20120707144347j:plain:w210 
f:id:cho0808:20210504115741j:plain:w210 
今はもうない「久保紙店」(上)
今はもうない青春の思い出とお豆腐屋さん(中)
西外惣構堀と升形(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、升形に掲げられた看板の説明文など]
[発見日:平成30年3月18日]