【福岡市】天神町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】天神一丁目、天神二丁目
【感想・雑記】約1カ月ぶりの令和の福岡出張シリーズ。今回ご紹介するのは「天神町」です。福岡一、いや九州一の繁華街といっても過言ではない「天神」の旧町名、「天神町」がついに見つかりました!感動モンたい!出張シリーズは今回も、いつもより写真マシマシでご紹介していきますよ!

神町は、これまでの福岡出張シリーズでご紹介してきたいわゆる博多部の旧町名ではなく、福岡部の旧町名です。黒田家による福岡城築城以来の城下町で、遣隋使の古代より栄えた博多部に比べると比較的新しい町ということになります…が、新しいといっても金沢の町の歴史とほぼ同じです。。。
神町は、現在の明治通り沿いの道筋で、地下鉄天神駅付近にかつてあった町です。明治通りはかつて市内電車が走っていました。福岡部には、天神町のほかにも、同じく明治通り沿いの大名町、それから橋口町、名島町、呉服町、本町、大工町、簀子町のいわゆる六町筋の町、それ以外にも材木町、東職人町、西職人町、鍛治町、因幡町、土手町、小烏馬場、薬院町、薬研町、紺屋町、林毛町、養巴町、雁林町、鉄砲町、西小性町、東小性町などなどなどなど、非常に数多くの町がありましたが、昭和の東京オリンピック前後、行政事務の合理化の名のもとに行われた住居表示の実施により「天神」、「大名」、「舞鶴」、「赤坂」などのいくつかの町にきれいに合理化されてしまいました。このうち「天神町」は、オリンピックと同じ年の昭和39年に天神一丁目と天神二丁目の一部となって消滅してしまいました。「町」の字がきえて「丁目」がつきましたが、「天神」の名前が残っただけまだ恵まれている町と言えるかもしれません。
「天神町」の読み方ですが、「てんじんまち」でも「てんじんちょう」でもありません。「てんじんのちょう」なのです。さらに昔の人は「てんじのちょう」とよんでたらしいです。「の」を入れる同じような例は、大名地区の旧町名でも見られます。養巴町(ようはのちょう)、雁林町(がんりんのちょう)。なお、天神地区も大名地区も舞鶴地区もひたすら歩き回りましたが、そこは九州最大級の都心部、再開発のためなのか、古いお宅はほぼ見つからず、通りの名前や電柱にかろうじて名残を残すのみとなっておりました。
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電柱番号札と通りの名前に残る旧養巴町(上)
通りの名前に残る旧雁林町(中)
紺屋町(こうやまち)通りにかろうじて残る古いお宅(下)

続いて町名の由来ですが、天神町というくらいなので天神さま、菅公(菅原道真)さま由来であることは明白です。てっきり大宰府天満宮あたりだろうと思ってましたが、全然ちがってました。
今も福岡の都心、天神一丁目にややこじんまりと鎮座する「水鏡神社(水鏡天満宮)」がその由来でした。菅原道真公が大宰府に左遷される道中、庄村(現在の今泉)を流れる四十川の水面に自分の姿を映し、やつれた姿を見て嘆き悲しんだとされ、これにちなんで庄村に社を建てて「容見(すがたみ)神社」と呼んで菅公さまをおまつりしたのがはじまりだそうです。その後、黒田長政公が「水鏡天満宮」として福岡城の鬼門にあたる現在地に移転して城下の守護神としたのだそうです。
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水鏡天満宮の鳥居と赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)(上)
菅公さまを祀る水鏡天満宮の本殿(中)
手水場でみつけた剣梅鉢の御紋(下)

神町は、明治以降、警察署、市役所、県庁などの移転で官庁街になり、大正13年(1924年)には、九州鉄道の福岡駅(現在の西鉄福岡(天神)駅)が開業して久留米行電車が走るようになりましたが、その頃の都心・繁華街は博多で、まだまだ場末のかんじだったそうです。現在のように一大商業地となったのは昭和11年(1936年)の岩田屋開店による影響が大きいとのこと。
岩田屋は、宝暦4年(1754年)に福岡の大工町で中牟田小右衛門が、呉服商岩田屋平七から屋号を譲り受けて開業した呉服店が始まりです。昭和11年(1936年)、福岡駅に隣接して九州初のターミナルデパート岩田屋が開店すると、都心としての様相が整ってきたのだそうです。戦争の空襲によって瓦礫の街となったものの、戦後のめざましい復興により、みるみる九州一の繁華街として発展しました。その天神も、さらなる再開発が進んでいます。今後もますますの発展がみられることでしょう。
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福岡を代表するデパート岩田屋(上)
再開発中の天神地区(旧天神コア)(下)

さて、最後に急転直下、どんでん返しの種明かしの巻です。
今回発見した「福岡市天神町」は天神町で発見したものではございませんでした!ごめんなさい!
f:id:cho0808:20201017101057j:plain:left:h350実は、天神町を発見した場所のは天神町から遠く離れた福岡市中央区清川三丁目です。そして見つけたのはこの琺瑯引きの看板なのです。しかも住居表示実施後の清川三丁目となってからの琺瑯看板でして、「福岡市天神町55番地」は、街区表示板を寄贈した大商証券(のち新日本証券、新光証券となり現みずほ証券)さんの所在地だったのです。重ね重ね申し訳ございません!

ただですよ、よく考えてごらんなさい。あーた。この街区表示の琺瑯看板、昭和39年に消滅した福岡市天神町がまだご存命だったときにできた街区表示板なのですよ。清川の誕生は、昭和37年(1962年)、住居表示の法律施行に合わせて誕生した町なのです。おそらく全国で最初の住居表示地区なのですよ。われらが金沢も、最初の住居表示は昭和38年(1938年)でかなり早い実施だったのですが、さらにその前年の、法律施行と同時の昭和37年の住居表示実施は、おそらく全国最先端のモデル地区だったものと思われます。街区番号を表す「1番」の部分が「1街区」となっているところも、まだまだ制度初期の風格を漂わせています。ということで、かなり貴重な琺瑯看板を発見できたということが証明されましたので、満場一致お咎めなしでお手打ち、ということでよろしいですかね?よござんすね?
ちなみに、清川の旧町名は「新柳町」です。江戸初期より公認の遊郭柳町遊郭が明治末期に移転して誕生した歓楽街でした。すっかり住宅地になった清川の町、新柳町遊郭の名残は、電柱番号札に「大門」という、いかにも遊郭らしい名称として残されていました。
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清川三丁目で見つけた「大門」の電柱番号札

[参考文献:井上精三『福岡町名散歩』葦書房(1983)、西日本シティ銀行『ふるさと歴史シリーズ 博多に強くなろう No.16 城下町 福岡の町並み』、ウィキペディアなど]
[発見日:令和2年9月26日]