はじめに

102soさんにご快諾いただき、旧町名をさがす会金沢支部の会員として、
行政上は失われてしまった北陸・金沢の旧町名を見つけて紹介していきます。

ご本家、東京のさがす会よりネタ切れは確実に早いと思われます…
あくまでも番外編として、短い間(?)ですが、お楽しみいただければと思います。
ちなみにこのサイトはリンクフリーですよ。

102soさんによるご本家のさがす会はこちら。
旧町名をさがす会

安江町

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【消滅した年】現存
【住居表示実施した年】昭和40年(1964年)
【現在の町名】安江町、本町一丁目
【感想・雑記】安江町は現存町名ですが、今回ご紹介した表札はもう見ることができません。町名は現存ですが、住居表示前の番地表示かつ、横書き逆向きかつ、電話番号が局番なし4桁かつ、10が拾なのでおそらく戦前のものと思われる貴重な表札です。町名は現存ですが、発見した建物は武蔵地区の再開発の波に耐えきれず、平成の終わりとともに消滅してしまいました。一帯もろとも取り壊され、現在、高層マンションが建設されています。
一帯もろとも取り壊されたなかには、立派な町家建築の紙屋さんや、古い写真館のビルや、知り合いのお豆腐屋さんや、高校生のときに人生で初めて思春期男子が読みたくなるような雑誌を買った雑貨屋さん?タバコ屋さん?がありました。

さてさて、現存する安江町ですが、読み方は「やすえまち」ではなく「やすえちょう」です。この安江町、住居表示前の安江町と現在では町域が全く異なります。かつての安江町は、白銀町交差点から武蔵ヶ辻に至る通り沿いの、安江町交差点付近だけの小さな町でした。それが昭和40年の住居表示により周囲の裏安江町一番丁、二番丁、横安江町の全域と、袋町、象眼町、巴町、五宝町鍛冶町彦三七番丁、八番丁の各一部を飲み込んで巨大化しました。
安江町の由来は、中世の頃にあった上安江村に由来するそうです。金沢五社の一つ、安江八幡宮も同じ由来ですね。江戸初期には安江木町と呼ばれ、宮腰(現在の金石地区)の港から運ばれる材木の集散地であったことにちなむ、だそうです。とまあ、歴史ある安江町という名前が残ってめでたしめでたしでした、とは終わらないのが旧町名をさがす会金沢支部です。お話しはもう少し続きます。

かつての安江町で、現在は本町一丁目の一画に、小さなピラミッドみたいな不思議なオブジェが2〜3年前頃から作られてて、あれなんだ?といぶかしく思っている金沢市民もおられるかと思います。ちゃんとオブジェの前に立って、看板の説明文を読めば分かるのですが、それすらめんどくさいあなたのために解説しちゃいましょうー。

あのミニピラミッドは、升形と呼ばれる
防御施設の土居(土塁、土手)の一部を再現したものです。土居の前にはお堀も再現されています。ここは、ちょうど城下町の出入口にあたり、宮腰の港へ向かう交通の要衝だったため、升形には門が設けられていたとのこと。ちなみに升形は、鍵の手とも呼ばれ、防御の手段として道を直角に曲げて敵を追い詰めやすくしたものだそうです。

ところで、堀と土居で城の防御を固めたものといえば惣構だよね、と気づいたあなたはそこそこ金沢通。この日記でも何度かお話ししたことあります(例えばこの回とかこの回とか)。この升形は、ちょうど西外惣構と宮腰往還と接続点にあたります。
ご存知ない方や過去の日記を読むのがめんどくさい方むけに惣構の復習です。利家公の死去後、徳川家との関係が悪化し、一触即発となった慶長4年(1599年)のいわゆる「慶長の危機」ですが、このとき利長公がキリシタン大名高山右近に命じて作らせたのが内惣構、さらに慶長15年(1610年)に篠原出羽守一孝に作らせたのが外惣構です。それぞれ総延長2.9キロと4.2キロの二重の惣構で囲まれた金沢城下は、堺などと並ぶ環濠都市と言われています。高山右近と篠原一孝、2人の築城の名人、土木のプロが作った惣構は現在、土居こそなくなったものの、お堀は令和の現代にも用水などの一部として残り続けております。
なお余談ですが、「升形」は文政6年(1823年)には、安江木町から分立してこのあたりの町名にもなったそうです(明治4年に安江町に編入)。また、ほど近くにあった旧弓ノ町も、升形弓ノ町と通称されています。

以上、コンクリ作りのへんなピラミッド型オブジェですが、実は金沢がかつて環濠都市であったことの名残を伝える遺構の復元ということをお伝えし、2ヶ月越しの篠原出羽守ゆかりの町三部作とともに、現存町名の安江町のご紹介を終えたいと思います。ご静聴ありがとうございました。

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今はもうない「久保紙店」(上)
今はもうない青春の思い出とお豆腐屋さん(中)
西外惣構堀と升形(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、升形に掲げられた看板の説明文など]
[発見日:平成30年3月18日]

中主馬町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】菊川一丁目、菊川二丁目
【感想・雑記】ファッションタウンの竪町商店街をぬけ、新竪町商店街も抜けてひたすら前進あるのみ。迷わず行けよ、行けば分かるさ。ちょうどどんつきのあたりに「旧主馬町」の標柱が見つかるでしょう。そして、かつてその近くで見つけたはずの「中主馬町」の表札でしたが、先週末久々にこの界隈を訪れてみたのですがどうしてもこいつを見つけることができませんでした。また一つ、大切な旧町名の遺構が消えてしまったのでしょうか。。。

「中主馬町」という名前からお分かりのとおり、「上主馬町」と「下主馬町」もありました。あと、ちょっと変化球的な「主馬町広丁」という町も主馬町セットでしたが、全て昭和39年(1964年)の東京オリンピックの年に消滅してしまいました。
上中下と広丁に分かれたのは明治4年(1871年)ですが、江戸時代には主馬町、主馬殿町と呼ばれていました。主馬「殿」というくらいですから、お侍さんの名前に由来する町名で、大阪夏の陣にも出陣した本庄主馬という鉄砲隊の武士の邸宅があったことからこの町の名前になったそうです。

本庄主馬は拝領1,800石ほどなのでそこまでのご身分ではないお侍さんなのですが、嫁が有名なんです。正確には嫁のお父さんが有名なんです。嫁のお父さんの名前は篠原一孝、そう、前回ご紹介の出羽町の由来となった城普請の名人、篠原出羽守なんです。そしてもうひとつ有名なのが坂なんです。主馬が結婚するときに、出羽守の屋敷のあった出羽町と、主馬の屋敷のあった主馬町の間の坂道を切り拓いたことから「嫁坂」と呼ばれて令和の現代にも残っているんです。町の名前は消えても坂の名前は消えない。そんな感じなんでしょうか。。

さて、中主馬町といえば、この町で生まれた永井柳太郎さんをご紹介しないわけにはいかないでしょう。
永井柳太郎は、大正から昭和にかけて活躍した政治家で、逓信大臣や鉄道大臣を務めました。明治14年(1881年)、貧しい小学校教員の家に生まれましたが、志高く、石川尋常中学(現在の泉丘高)から同志社中、関西学院普通学部をへて早稲田大学に入学。雄弁会に所属し、その演説が大隈重信にも認められてオックスフォード大学に留学したというからすごいですよね。政治家になってからもその演説が有名で、初めての選挙で落選した際に、ジュリアス・シーザーの勝利宣言「来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Vici)」をもじって「来たり、見たり、破れたり」と演説したとか、初当選のとき、大勝を収めた原敬内閣に対して、その独裁ぶりをレーニンにたとえ、「西にレーニン、東に原敬」と演説して懲罰を受けたとか、演説にまつわる語録が残っています。
そんな永井柳太郎の生家が、金沢の奥座敷湯涌温泉郷にある「湯涌江戸村」に移設されて現存しておりますので、ぜひ本当に状況が落ち着いたら湯涌温泉とともにぜひ金沢にいらしてください。なお、永井家の跡地は永井善隣館となり、永井の銅像が建てられています。

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出羽町と主馬町をむすぶ嫁坂(上) 
湯涌江戸村に移設された永井柳太郎生家(中)
永井善隣館にある永井柳太郎の銅像(下)
[参考文献:ウィキペディア
[発見日:平成24年5月20日

出羽町五番丁

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】石引四丁目
【感想・雑記】みなさま、お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。ひさびさの金沢編、今回は読者のなかに一定数のコアなファンがいると信じてやまない電柱番号札マニアのための旧町名のご紹介です。決してそれしか見つからなかったことを誤魔化すわけではないはずのところと聞き及んでおります。電柱番号札マニアのみなさまに「ナイスですね!」といってもらえるようにガンバリマス。

さて、今回ご紹介の「出羽町五」の番号札、これまでのモノと少しちがうことにお気づきでしょうか?ヒント。旧町名の書いてない、数字だけの番号札のほうが分かりやすいかと思います。
チチチチチ、時間切れー。答え合わせ。「デンリョク番号札なのに文字の色が緑色!」というのが答えです。「出羽町五」もだいぶ色落ちして黒っぽくみえますが、よーくみると深い緑に着色されているようにみえます。一方、デンデン系の番号札はこれまでご紹介したものも緑文字のものが大半でした(たとえばこちら)。これはどういうことでしょうか?
このへんの説明が石川県内の電気工事屋さんのブログにありました。出典を知りたい方はGoogle先生に「電柱番号札 緑」ときいてみてください。
こちらのブログによれば、文字色は電柱の所有者を表すのだそうです。「黒文字電柱札が付いている電柱の所有者は北陸電力」で「緑文字電柱札が付いている電柱の所有者はNTT」とあります・・・が、正確には、「デンリョク系電柱番号札」の文字の色、というのが正しいと思われます。なぜって、黒文字のデンリョク番号札と緑文字のデンデン番号札が同じ電柱に共存してる場合がありますから(たとえばこちら)。
デンデン系が基本的に緑文字なので、そちらに敬意を表して、NTT所有の電柱はデンリョク番号札も、文字色を緑色にしているということなのでしょうか。北陸電力管内のみなさんも家のまわりの電柱番号札をみてみてください。デンリョク緑(NTT所有の共用柱)はけっこうレアだと思いますよ。

はてさて、電柱の話が長くなりすぎて、うっかり町の紹介を忘れるとこでした。「出羽町」自体は今も現役ですので、イマイチ有難みの少ない旧町名かもしれませんが、「出羽町五番丁」は昭和39年に消滅しており、れっきとした旧町名です。場所は石引大通りの松原病院さん側の裏路地あたりです。なお、現在の出羽町は、かつて大半が下本多町と出羽町一番丁だった場所なので、旧出羽町とは町域が異なっています。
旧出羽町は一番丁から五番丁までありましたが、明治19年(1886年)に一番丁から三番丁とその周辺の町の、あわせて5万坪余を軍に召し上げられ、出羽町練兵場となり、軍の施設が置かれていました。明治時代以降、人が住んでいたのは四番丁と五番丁だけです。

出羽町の町名は、かつての出羽町一番丁(NTTの出羽町ビル付近)に、篠原出羽守一孝のお屋敷があったことに由来します。篠原一孝は、若い頃より前田利家公に仕えた武将で、口の堅い律儀者と評された人物です。また、城普請、特に石垣普請の名人との評価も高い武将でした。そういえば、福岡城石垣は土日だけの公開ですが、金沢城の石垣は毎日見学できます。金沢城公園は「石垣の博物館」とよばれて石垣めぐりのコースもありますが、こちらは金沢の街に篠原出羽守が残してくれた大切な宝物なのではないでしょうか。

最後に、現在の出羽町のお話しです。現在の出羽町には民家ゼロです。企業や公共施設だけからなる町なので、出羽町に住んでる人はいません。町にあるのは、先述のNTTビルのほか、旧陸軍の兵器庫を利用した赤レンガの建物ステキな石川県立歴史博物館や石川県立美術館ですが、新たに昨秋、東京国立近代美術館工芸館(国立工芸館)が出羽町に移転されてきました!本当は開館に合わせてこの日記を書くつもりだったのに、気づけば年をまたいではや2月。。。
ということで次回も引き続き、篠原出羽守一孝のお話しの予定です。ではでは。

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電柱がNTT所有の出羽町にあるビル(篠原出羽守一孝屋敷跡)(上) 
「石垣の博物館」粗加工石積み(中)
石川県立歴史博物館(左)と国立工芸館(右)の建つ現在の出羽町(下)
[参考文献:安井電気工事ブログ(2006年4月6日)、市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成25年11月23日]

【福岡市】山荘通三丁目

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【わりと消滅した年】昭和47年(1972年)
【現在の町名】山荘通三丁目、平尾四丁目、平尾五丁目
【感想・雑記】年またぎの福岡シリーズも今回が最終回です。大河ドラマも年またぎを経て、昨日ようやく最終回を迎えました。いやーおもしろかった。次週より大河ドラマは戦国から幕末へ、ということで、福岡出張シリーズおまけの最終回も便乗して戦国から幕末に舞台をうつしたいと思う所存でございます。

今回ご紹介するのは、前回と同じく福岡市中央区の住居表示未実施の3町のひとつ、「山荘通三丁目」です。つまり現役町名で正確には旧町名ではありません。読み方はそのまま「さんそうどおり」です。場所は、中央区平尾の閑静な住宅街にわずかに残った町域です。町の近くには、かつて中洲にあった玉屋百貨店の創業者、田中丸善八さんの邸宅跡(松風園として公開されています)などもある高級住宅街で、全く山の中の雰囲気はありません。なのに「山荘」ってどういうわけなんでしょ?まあこちらの説明はのちほど。

とにかくもまあ、山荘通三丁目ですよ。一丁目と二丁目は昭和47年に消滅したにもかかわらず、三丁目だけが一部残ってるんですよ!そう!金沢と同じなんです!すでにご紹介済みの新竪町三丁目観音町三丁目などの仲間が、遠く福岡の地で見つかりました!
山荘通三丁目が残った理由には、おそらく山荘通りの町の名に愛着のある地元のみなさまの声があったのでしょう。その地元の方に愛される山荘通りとは一体なんでしょうか?中央区の閑静な住宅街にある町なのに、なぜ「山荘」なのか?

ということで、ようやく山荘通(り)の町名の由来ですが、かつての町内で、現在は平尾五丁目にある「平尾山荘」という史跡に由来します。観光客でも訪れる人はあまり多くないのではないかと思われる、知る人ぞ知る歴史スポットなのです。住宅街のなかに突如として現れるひなびた草庵風の史跡が平尾山荘なのです。
この山荘は、野村望東尼(ぼうとうに、またはもとに)という幕末の女流歌人が暮らした住居跡なのです。
この野村望東尼さん、ただの歌人ではなく、勤王家、つまり尊王攘夷思想を持った女性で、この平尾山荘で何人もの勤皇の志士をかくまったり、密会の場所を提供したりしたのだそうです。その志士のなかでも特に有名なのが高杉晋作で、のちに望東尼が姫島へ流刑になったときに脱出の手引きをしたのも晋作なのだそうです。
病に倒れた晋作の死の床で、かの有名な辞世の句に下の句を付けたのが野村望東尼といわれています。(辞世の句というのには諸説あり)
コロナ禍の自粛生活で、何かと心晴れないご時世ではありますが、そんな2021年の最初の日記にふさわしい句だと思いますので、高杉晋作辞世の句とともに福岡出張シリーズ、おまけの最終回をしめたいとおもいます。句の意味がわからない人は調べてね。

おもしろき 事もなき世に おもしろく
すみなすものは心なりけり

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松風園(田中丸善八邸)(上)
平尾山荘(中)
野村望東尼像(下)
[参考文献:松風園でもらったパンフレット、Wikipedia(野村望東尼)]
[発見日:令和2年9月20日

【福岡市】古小烏町

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【わりと消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】古小烏町、警固一丁目、警固二丁目、警固三丁目、桜坂一丁目、桜坂二丁目、薬院一丁目、薬院二丁目
【感想・雑記】この日記をご覧のみなさま。すでに2月に突入していますが、今年もよろしくおねがいいたします。昨年、福岡出張シリーズ3部作として終わらせるつもりでしたが、本業多忙につき更新が滞ってしまい、3作目がついに年をまたいでしまいました。
ということで、ゆっくりしている暇はありません。さっそくのご紹介です。まずは写真をご覧ください。福岡市中央区といえば福岡市の中央部です。博多区が「博多部」の区域だとすれば中央区は「福岡部」の区域です。つまり、商人の町「博多」に対する武士の町「福岡」の旧市街地の中心でもあります。そんな中央区は、住居表示施行時のモデル都市「福岡」だけあって、区内のほとんどの町が住居表示実施されてしまっています。そのようななかにあって、わずか3町だけ住居表示未実施の町が残っているのです。今回はその一つの「古小烏町」をご紹介したいと思います。ということで、つまり今回は、旧町名ではなく現役の町名ってことですよ。ずるいやつです。すみません。。。
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古小烏町にあったパン屋さん(現在は移転)

さきほど中央区は、武士の町「福岡」の旧市街地であるとお伝えしましたが、実は一部、郡部からの編入地域も含んでいます。中央区の住居表示未実施の3町は、まさにかつて郡であった町に残存しています。場所は西鉄薬院駅から西鉄平尾駅周辺で、かつての筑紫郡警固村大字薬院(江戸時代は薬院村)、筑紫郡八幡村大字平尾(江戸時代は平尾村)にあたります。古小烏町はかつての薬院村にあった町です。ちなみに残りの2町、薬院伊福町は薬院、山荘通三丁目は平尾に残っています。なお、このあたりにあった平尾浄水町、平丘町、浄水通、御所ヶ谷の4町も長らく住居表示未実施でしたが、2008年に住居表示されました。ただし町は消滅せずにそのまま残っています。よかったね。
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薬院伊福町にある古小烏公園

さてさて、ようやく古小烏町のご紹介です。「ふるこがらすまち」と読みます。一風変わった町名ですね。由来は、薬院村の小字によるものですが、字名の由来は、かつての町内(現在の警固三丁目)に残る小烏神社によります。小烏神社は、同じくかつての福崎の丘陵にあった警固宮とともに合祀され、現在の警固神社の地に移ります。なお、現在警固神社の建っている付近は、かつて馬術の練習場(馬場)があったことから「小烏馬場」という町名でしたが、昭和39年(1964年)に消滅し、天神二丁目となってしまいました。その警固神社と合祀された後も、小烏神社が分離されて残り、その地が「古小烏」という字名として残ったものと考えられます。なお小烏神社のご祭神はご存じの方はご存じ、八咫烏(建角身神)。三本足のカラスの神さまで、神武東征で熊野から橿原まで導いたという導きの神として知られていますよね。サッカー協会のシンボルマークでも有名です。ただ、なぜ熊野本宮の神さまである八咫烏が、神話の地から遠く離れた筑紫の警固の丘に祀られているのかはナゾ、ということでした。
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現在の警固にある小烏神社(上)
旧小烏馬場にある警固神社(下)

…と、ここまで、警固村警固神社などで出てきた警固という地名。いかにも福岡らしい地名ですよね。ほかであまり見られない気がします。警固は「けご」と読みます。平安時代に設置された警固所(けごしょ)という役所に由来します。大陸に近い福岡の地は、古代より外敵の脅威にさらされてきました。その防衛施設として置かれたのが警固所というわけです。なお、警固所は、鴻臚館(こうろかん)という外交施設兼迎賓館のようなお役所とセットで置かれました。
ちなみに鴻臚館はかつての平和台球場跡地で遺構が発見されました。鴻臚館は、福岡(筑紫)のほか、難波、平安京にもありましたが、かつての遺構が見つかっているのは福岡のみ、とのことです。
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警固所附属の外交施設・鴻臚館跡

なお、平和台球場跡地のほか大濠公園舞鶴公園一帯はかつての福岡城址です。お散歩中に土日のみ公開している福岡城址の石垣も見学してきたのですが、、、石垣見学の話は次回以降に持ち越しということで、本日の古小烏町のご紹介を終えたいと思います。本日いよいよ大河ドラマも大詰め最終回。黒田官兵衛も出るようです。福岡のみなさまお楽しみに。こちらはもうすぐ金沢編にもどりますので金沢のみなさましばしお待ちを。
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福岡城址の石垣

[参考文献:小烏神社でもらったパンフレット、鴻臚館でもらったパンフレット]
[発見日:令和2年9月21日]

【福岡市】天神町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】天神一丁目、天神二丁目
【感想・雑記】約1カ月ぶりの令和の福岡出張シリーズ。今回ご紹介するのは「天神町」です。福岡一、いや九州一の繁華街といっても過言ではない「天神」の旧町名、「天神町」がついに見つかりました!感動モンたい!出張シリーズは今回も、いつもより写真マシマシでご紹介していきますよ!

神町は、これまでの福岡出張シリーズでご紹介してきたいわゆる博多部の旧町名ではなく、福岡部の旧町名です。黒田家による福岡城築城以来の城下町で、遣隋使の古代より栄えた博多部に比べると比較的新しい町ということになります…が、新しいといっても金沢の町の歴史とほぼ同じです。。。
神町は、現在の明治通り沿いの道筋で、地下鉄天神駅付近にかつてあった町です。明治通りはかつて市内電車が走っていました。福岡部には、天神町のほかにも、同じく明治通り沿いの大名町、それから橋口町、名島町、呉服町、本町、大工町、簀子町のいわゆる六町筋の町、それ以外にも材木町、東職人町、西職人町、鍛治町、因幡町、土手町、小烏馬場、薬院町、薬研町、紺屋町、林毛町、養巴町、雁林町、鉄砲町、西小性町、東小性町などなどなどなど、非常に数多くの町がありましたが、昭和の東京オリンピック前後、行政事務の合理化の名のもとに行われた住居表示の実施により「天神」、「大名」、「舞鶴」、「赤坂」などのいくつかの町にきれいに合理化されてしまいました。このうち「天神町」は、オリンピックと同じ年の昭和39年に天神一丁目と天神二丁目の一部となって消滅してしまいました。「町」の字がきえて「丁目」がつきましたが、「天神」の名前が残っただけまだ恵まれている町と言えるかもしれません。
「天神町」の読み方ですが、「てんじんまち」でも「てんじんちょう」でもありません。「てんじんのちょう」なのです。さらに昔の人は「てんじのちょう」とよんでたらしいです。「の」を入れる同じような例は、大名地区の旧町名でも見られます。養巴町(ようはのちょう)、雁林町(がんりんのちょう)。なお、天神地区も大名地区も舞鶴地区もひたすら歩き回りましたが、そこは九州最大級の都心部、再開発のためなのか、古いお宅はほぼ見つからず、通りの名前や電柱にかろうじて名残を残すのみとなっておりました。
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電柱番号札と通りの名前に残る旧養巴町(上)
通りの名前に残る旧雁林町(中)
紺屋町(こうやまち)通りにかろうじて残る古いお宅(下)

続いて町名の由来ですが、天神町というくらいなので天神さま、菅公(菅原道真)さま由来であることは明白です。てっきり大宰府天満宮あたりだろうと思ってましたが、全然ちがってました。
今も福岡の都心、天神一丁目にややこじんまりと鎮座する「水鏡神社(水鏡天満宮)」がその由来でした。菅原道真公が大宰府に左遷される道中、庄村(現在の今泉)を流れる四十川の水面に自分の姿を映し、やつれた姿を見て嘆き悲しんだとされ、これにちなんで庄村に社を建てて「容見(すがたみ)神社」と呼んで菅公さまをおまつりしたのがはじまりだそうです。その後、黒田長政公が「水鏡天満宮」として福岡城の鬼門にあたる現在地に移転して城下の守護神としたのだそうです。
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水鏡天満宮の鳥居と赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)(上)
菅公さまを祀る水鏡天満宮の本殿(中)
手水場でみつけた剣梅鉢の御紋(下)

神町は、明治以降、警察署、市役所、県庁などの移転で官庁街になり、大正13年(1924年)には、九州鉄道の福岡駅(現在の西鉄福岡(天神)駅)が開業して久留米行電車が走るようになりましたが、その頃の都心・繁華街は博多で、まだまだ場末のかんじだったそうです。現在のように一大商業地となったのは昭和11年(1936年)の岩田屋開店による影響が大きいとのこと。
岩田屋は、宝暦4年(1754年)に福岡の大工町で中牟田小右衛門が、呉服商岩田屋平七から屋号を譲り受けて開業した呉服店が始まりです。昭和11年(1936年)、福岡駅に隣接して九州初のターミナルデパート岩田屋が開店すると、都心としての様相が整ってきたのだそうです。戦争の空襲によって瓦礫の街となったものの、戦後のめざましい復興により、みるみる九州一の繁華街として発展しました。その天神も、さらなる再開発が進んでいます。今後もますますの発展がみられることでしょう。
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福岡を代表するデパート岩田屋(上)
再開発中の天神地区(旧天神コア)(下)

さて、最後に急転直下、どんでん返しの種明かしの巻です。
今回発見した「福岡市天神町」は天神町で発見したものではございませんでした!ごめんなさい!
f:id:cho0808:20201017101057j:plain:left:h350実は、天神町を発見した場所のは天神町から遠く離れた福岡市中央区清川三丁目です。そして見つけたのはこの琺瑯引きの看板なのです。しかも住居表示実施後の清川三丁目となってからの琺瑯看板でして、「福岡市天神町55番地」は、街区表示板を寄贈した大商証券(のち新日本証券、新光証券となり現みずほ証券)さんの所在地だったのです。重ね重ね申し訳ございません!

ただですよ、よく考えてごらんなさい。あーた。この街区表示の琺瑯看板、昭和39年に消滅した福岡市天神町がまだご存命だったときにできた街区表示板なのですよ。清川の誕生は、昭和37年(1962年)、住居表示の法律施行に合わせて誕生した町なのです。おそらく全国で最初の住居表示地区なのですよ。われらが金沢も、最初の住居表示は昭和38年(1938年)でかなり早い実施だったのですが、さらにその前年の、法律施行と同時の昭和37年の住居表示実施は、おそらく全国最先端のモデル地区だったものと思われます。街区番号を表す「1番」の部分が「1街区」となっているところも、まだまだ制度初期の風格を漂わせています。ということで、かなり貴重な琺瑯看板を発見できたということが証明されましたので、満場一致お咎めなしでお手打ち、ということでよろしいですかね?よござんすね?
ちなみに、清川の旧町名は「新柳町」です。江戸初期より公認の遊郭柳町遊郭が明治末期に移転して誕生した歓楽街でした。すっかり住宅地になった清川の町、新柳町遊郭の名残は、電柱番号札に「大門」という、いかにも遊郭らしい名称として残されていました。
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清川三丁目で見つけた「大門」の電柱番号札

[参考文献:井上精三『福岡町名散歩』葦書房(1983)、西日本シティ銀行『ふるさと歴史シリーズ 博多に強くなろう No.16 城下町 福岡の町並み』、ウィキペディアなど]
[発見日:令和2年9月26日]