はじめに

102soさんにご快諾いただき、旧町名をさがす会金沢支部の会員として、
行政上は失われてしまった北陸・金沢の旧町名を見つけて紹介していきます。

ご本家、東京のさがす会よりネタ切れは確実に早いと思われます…
あくまでも番外編として、短い間(?)ですが、お楽しみいただければと思います。
ちなみにこのサイトはリンクフリーですよ。

102soさんによるご本家のさがす会はこちら。
旧町名をさがす会

木倉町

 
【消滅した年】昭和40年(1965年)
【復活した年】平成15年(2003年)
【現在の町名】木倉町、片町二丁目
【感想・雑記】本日、令和2年3月9日は、この日記をつけはじめてちょうど8年目の記念日です。といっても、当初のせっせとした感じはどこへやら、ここ最近は年に数回の更新ペースでゆったりと時を刻んでおります。

さてさて、8年前、一番最初にご紹介したのが、金沢ではじめて旧町名復活した「主計町」でした。ですので、満8年目の今回、同じく復活した旧町名である「木倉町」をご紹介してまいりたいと思います。

「木倉町」は「きぐらまち」と読みます。昭和40年(1965年)、片町二丁目となって消滅しましたが、平成15年(2003年)に華々しく復活を遂げました。
木倉町といえば金沢の夜の顔。居酒屋の並ぶ小路です。でも3月現在、未知のウィルスの猛威によるさまざまな自粛ムードのなか、居酒屋は大きな被害を受けているときいています。一日も早く、災いが去って、また平穏な日々がもどってきてほしいとせつにねがってやみません。

木倉町の由来は、「藩政の初めころ、藩の材木蔵があったのでこの名がついた。もとは木町、また一時期、西側半分は出大工町とも呼ばれていた。本町の一つ」(金沢市のホームページより)だそうです。藩政初期から続くかなり古い町名のようですね。本町というのは町の中でも最も格付けの高い町で、地子銀と呼ばれる税金が免除された町だそうです。

江戸時代は木材の流通や輸送が経済活動のなかでも重要な役割を果たしていました。金沢では、木倉町のほか、材木町木町、木揚場などなど、木材に関する町名が見られます。材木は、宮腰の湊(現在の金石港)から木曳川、そのあと大野庄用水に入って城下に運ばれたのち、木揚場、木倉町などで荷揚げされて、材木蔵に貯えられたと考えられます。ちなみに大野庄用水は、木材などの大切な荷物=御荷を運ぶ川、ということで御荷川と呼ばれ、鬼川と当て字されたりしています。過去のこちらの日記などにもこのことを書いていますのでご参考まで。

以上、木倉町のご紹介でした、おしまい。…と終わらせる前にあとひとつだけ。今回ご紹介した旧町名の遺産、どこかで見たことがありませんか?緑のうぐいすもち型のアレ、長町校下でしか見つからないという例のアレです。大工町でご紹介しましたね。謎の組織「青産研」てなんぞや、という話なのですが、どうやら、「石川県青年産業研究協議会」という団体らしい、ということが分かってきましたが、これ以上のことは分かりませんでした。引き続き調査を継続いたしますので、本日はこのへんでご勘弁を。では、9年目もひとつよろしくおねがいいたします。

 
 
昼の木倉町通り(外出自粛につき大薮小路の回の使い回し写真)(上)
鬼川の聖天(養智院)(裏古寺町の使い回し写真)(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成24年4月30日]

七宝町

f:id:cho0808:20200308000434j:plain:h350 
【消滅した年】昭和40年(1965年)、昭和45年(1970年)
【現在の町名】玉川町、武蔵町
【感想・雑記】七宝町(しっぽうまち)。7つの宝といえば、集英社系の某神龍の玉を集める鳥山作品か?はたまた小学館系の某犬妖怪の子狐ちゃんのるーみっく作品か?
由来がよく分からないので、角川書店系の某地名大辞典を読みましたが、「下伝馬町の一部を七宝小路とし明治4年の新定区画には町名が見えるが、それ以前の町名の起源については不詳」ということで、7つの宝の意味はよくわかってないようです。

まあそんなわけで、七宝町の情報はほとんどないため、そろそろおひらき、なのですが、、、なんと!平成16年、この旧町名が「復活」していたのです!!
といっても金沢の旧町名復活、ではなくて、交差点の名前として復活したということなのです。もとは現町名の「玉川町」交差点だったのが「七宝町」交差点に生まれ変わったのでした。一体何があったのでしょう?
実はこの年、金沢市立玉川図書館前の新しい道路が開通するのと同時に、玉川町商店街と交差する交差点の名前が「玉川町」交差点になったために、それまでの玉川町交差点が七宝町交差点になった、ということなのです。旧町名時代からの交差点が、町名消滅後も残っていることはよくありますが、現町名を冠する交差点が旧町名に変わる例はあまり見たことがありません。全国的にはどうなのでしょう???
というわけで、今回は情報量少なめの七宝町のご紹介でした。

f:id:cho0808:20200209161959j:plain:w210 
f:id:cho0808:20200209161553j:plain:w210 
七宝町交差点(旧玉川町交差点)(上)
"新しい"玉川町交差点(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)]
[発見日:平成26年5月4日]

與力町四番丁

f:id:cho0808:20200211100014j:plain:h350 
【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】宝町
【感想・雑記】今回ご紹介するのは、金沢を代表する河岸段丘、小立野台地にあった与力町です。旧字体で書くと與力町。かつての與力町の町域の大半は、大学病院(金沢大学附属病院)の敷地です。人の住まう町としては、かろうじて與力町一番丁と四番丁だけ町として残っていたのですが、昭和39年(1964年)に消滅して「宝町」となってしまいました。

このたび掲載した表札ですが、6年も前に撮ったもので、すでにお宅は取り壊され駐車場になってしまって今はもうありません。地番合併とあるかなり珍しい表札かと思いますが、おそらくすでに廃棄されてしまっているでしょう。ある意味、文化財にも相当するお宝だと思うのですが、こういった旧町名の遺構やお宝、なんとか保存することはできないものでしょうか。どうでしょうか。
なお、今回の表札、肝心の與力町の字がだいぶ崩されたり擦れたりして読みづらくなっていますが、なんとなく「與」?あと「四」の字がかろうじて読めるかんじでしょうか。どうでしょうか。まあ見つけた場所は間違いなくかつての與力町四番丁なので、そう書いてあると信じてさきに進みましょう。

與力町の町名の由来ですが、城下町らしい金沢ならでは、藩士の身分である「与力」に由来します。(以降は一般的な新字体の「与力」としますね)「与力」とは、藩主にお目見えのできないお目見え以下と呼ばれる身分で、禄高は60から300石程度(といってもぴんときません)です。原則一代限りの身分だそうです。加賀藩では、最下級の身分から順に、中間・小者、足軽【ここまでが軽輩】>御歩、与力【ここまでがお目見え以下】>平士、人持、年寄衆【お目見え以上】>加賀八家まで。このように武士階級は階層構造になっていました。江戸の幕府、各藩もだいたい同じですが、藩や時代によっても呼び名が少しずつちがうようです。与力町には与力階級の武家地として、大きなお屋敷が何軒もあったということなのです。

さて、そんなお屋敷の中に、この地に住んでいた与力が代々丹精込めて育てた樹齢数百年の松があり、13代藩主の前田斉泰公がぜひとも兼六園に移したいと望んだのですが、あまりの大きさに断念し、代わりに維持費として五人扶持(一人扶持は1人1日玄米5合だそうです)を与えて「天下に得難い松だから心して手入れせよ」と命じたといういい伝えが残されているそうです。この松は今もお屋敷で大事に育てられており、その名も「五人扶持の松」と呼ばれております。
のちにこのお屋敷は、実業家で、参議院議員でもあった林屋亀次郎のお屋敷となりました。現在、このお屋敷は亀次郎さんが開学した北陸大学の教養別館(「林鐘庵」とも呼ばれてるそうです)となっています。一般公開はされていませんが、ときどき特別公開されます。昨年夏も「かなざわ・まち博」で限定公開されました。

f:id:cho0808:20200209160640j:plain:w210 
f:id:cho0808:20190812162202j:plain:w210 
f:id:cho0808:20190812161511j:plain:w210 
旧與力町四番丁界隈(上)
大半が與力町内にある金沢大学病院(中)
五人扶持の松のある北陸大学教養別館「林鐘庵」(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成25年11月10日]

長田弓ノ町三番丁

  
【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】長田一丁目
【感想・雑記】新年あけましておめでとうございます。年を追うごとに更新頻度がさがるこの日記。わたしは生きてます。
さて、今回は、久々の弓ノ町シリーズです。金沢市には、かつて「弓ノ町」とつく町がいくつもありました。弓ノ町上弓ノ町中弓ノ町、下弓ノ町、三社弓ノ町、六斗林弓ノ町、そして今回ご紹介する長田弓ノ町です。弓ノ町の由来は、足軽弓組とよばれる弓部隊の組地(足軽の集合住宅地みたいなもの?)があったことによるものです。ということは、金沢には足軽の弓部隊がたくさんあったということなのでしょうか。ご紹介の長田弓ノ町は、石川郡長田村に隣接する弓兵の組地が置かれたことから名付けられたようです。

さて、今回発見したのはカマボコ型の電柱番号札ですが、通常は右下にあるはずの昭和○年の記載がありません。まあでも、カマボコ型のものは従来の例から昭和30年前後のものばかりなので、きっとこの電柱番号札も古いものだと信じましょう。
ところで、発見した電柱番号札にあるのはただの「長田弓町」としかないのに、どうして今回紹介する町が「長田弓ノ町三番丁」なのか。それには理由があるのです。
長田弓ノ町一番丁と二番丁は、大正5年の記録では戸数0だったそうです。その後、昭和7年には金沢市立長田町小学校(当時は長田町尋常小学校)が長田弓ノ町一番丁一番地の地に建てられることになり、一番丁は校舎、二番丁は校庭となってしまい、結果として長田弓ノ町は三番丁だけが人の住む町となったようなのです。だから今回見つけた電柱番号札は長田弓ノ町三番丁と言い切ってもさしつかえないわけです。ただ惜しむらくは・・・見つかったのが「長田弓町3」だったらよかったね。(ちなみに長田弓町2の数字部分は電柱を識別する固有番号のようです)

さてさて、今年もかなりのスローペースが予想されますがぼちぼち更新していきます。ご愛顧のほどよろしうおねがいいたします。

 
 
 
旧長田弓ノ町一番丁と二番丁に立つ金沢市立長田町小学校(上)
旧長田弓ノ町三番丁界隈(中)
長田弓ノ町(と思われる)に建つ長田菅原神社(下)
[参考文献:長田町校下まちづくり委員会編(1998)『長田のあゆみ』長田町校下まちづくり委員会]
[発見日:平成26年5月4日]

観音町一丁目

【消滅した年】昭和41年(1966年)
【復活した年】令和元年(2019年)
【現在の町名】東山一丁目→観音町一丁目
【感想・雑記】今回ご紹介するのは、本年5月2日に開催した令和最初の旧町名探し活動で発見した町名にして、令和の訪れとともにみごとに復活した観音町一丁目でございます。といっても、当日記開始2日目に、一丁目と二丁目 を出血大サービスで同時に紹介するという暴挙によって実はすでにご紹介済みなのです。暴挙をあとで激しく後悔し、昨年、二丁目のみを再度紹介したのち、今回は、続いて一丁目のみを再度紹介するに至ったわけです。なお、観音町は三丁目もご紹介済みなので、通算4回目の観音町の紹介になるわけです。過去3回も観音町をご紹介したにもかかわらず、どうしても1つだけいい忘れた大事なお話しがあるので、今回はそのお話しをしたかったのです。ということで観音町の最終回、しばしの間お付き合いください。

まずは簡単に復習です。観音町一丁目は昭和41年(1966年)に東山一丁目となって消滅したのですが、令和初日の令和元年5月1日に観音町二丁目、観音町三丁目とともに復活を遂げました。ただし観音町三丁目だけは、行政側の見落としとやらで住居表示されずに残った4世帯のみの一画があったので、厳密には復活ともいえないわけですが、東山一丁目になっていた大半の部分も観音町三丁目として領土回復、まさに令和のレコンキスタなわけであります。
今回発見した観音町一丁目は、見てお分かりの通りぴかぴかで、観音町が消滅する以前の昔の名残などではなく、復活後に新調された表札として発見いたしました。おそらく5月1日に復活を祝い、誇り高く掲げられた表札であると思われます!
(なお、かつての観音町消滅当時の名残を残すものは、さきほどの一丁目と二丁目のリンクをご参照のこと)

ところで、夏といえばとうもろこし、観音町といえばとうもろこし、です。観音院の四万六千日の縁日が旧暦7月9日に開催されますが、今年は、今週8月9日にとりおこなわれます。なお、とうもろこしでおなじみの四万六千日についてご存知ない方、詳しくは過去のこちらの日記をご覧ください。この時期、金沢には四万六千日を知らせる張り紙が町中いたるところで見かけるので行ったことのない人でも、「あぁ、あの張り紙ね!」って感じで金沢の人なら知らない人がいない張り紙となっているわけですが、、、実はこの四万六千日の張り紙、昨年までと何か違うのですがお気づきでしょうか?次の、3年前の張り紙(1枚目)と今年の張り紙(2枚目)の2つの写真をよーく見比べてみましょう~。どこがちがうかな?
f:id:cho0808:20160811185611j:plain:h210 f:id:cho0808:20190731155549j:plain:h210 
そうなのです!「東山一丁目」の箇所が「観音町」になっているのです!四万六千日の張り紙は版木を刷ったものなのですが、昭和41年の観音町消滅以来、「観音町」の箇所は墨を付けずに刷って、手書きで東山一丁目と書き入れていたらしいのですが、半世紀ぶりに「観音町」の箇所に墨を入れて刷ることができたのだそうですよ。手書きがなくなった分、作業も楽になったとか。まさに働き方改革!よかったですねえ~。

さてさて、今回、私が言い残した話題というのは、この観音院の話題ではなく、観音町三丁目にある「寿経寺」というお寺に祀られた七稲地蔵さまのお話しなのです。
七稲地蔵さまは、文字どおり7体のお地蔵さまで、安政の泣き一揆の首謀者の7人をお祀りしたお地蔵さまなのです。普段は、地蔵堂の格子戸が閉まっていますが、毎年8月26日の祭礼の日には戸が開けられて法要が行われるようです。
安政の泣き一揆は、安政5年(1858年)に起こった地震と長雨による凶作によって米の値段が跳ね上がり、飢えた民衆2千人が7月11日の四万六千日の後参りの日に卯辰山にのぼって「ひもじいわいやー」「ひだるいわいやー」「米くれまいやー」と泣きながら金沢城に向かって叫んだとされる一揆です。この一揆の首謀者のうち5人が斬首のうえさらし首、うち2人が牢死したそうのですが、50年後の明治41年(1908年)に、7人のお墓が寿経寺に寄進されて、現在に至る、ということでした。(もっと詳しく知りたい方はGoogle先生にきいてみよう!)

・・・以上が、観音町紹介の回のラストをかざる七稲地蔵のお話しでした。今年も梅雨明けまでは梅雨寒の日が続いて一時はどうなることかと思いましたが、連日の猛暑、好天でお米もすくすく育ってくれていることでしょう。そういえば、観音町一丁目には金沢でも最も古いお米屋さんといわれる経田屋米穀店さんがありましたっけ。一丁目のご紹介しないまま終わるとこでした。お米屋さんといえば、米どころ金沢の新しいお米「ひゃくまん穀」も好調のようですね。むちゃくちゃおいしいからぜひ県外の方も食べていただきたいものです。ということで、令和の御代の五穀豊穣を祈りつつ、本日はここまでにしたいと思います。

 
 
 
去年の四万六千日の様子(上)
寿経寺・七稲地蔵の地蔵堂(中)
観音町一丁目にある経田屋米穀店(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見、いいね金沢(金沢市公式ホームページ)北陸中日新聞 2019/6/30朝刊]
[発見日:令和元年5月2日]

山田屋小路二番丁

f:id:cho0808:20180701152615j:plain:h200
【消滅した年】昭和39年(1964年)?
【現在の町名】幸町
【感想・雑記】この日記を読んでくださっているみなさま、お久しぶりです。この春、はてなダイアリーというブログサービスが終了し、同じ会社のはてなブログというサービスに統合されることになりまして。実ははてなブログへの引っ越しは完了し、すでに記事も1本更新していたのですが、はてなダイアリーから自動でジャンプしてくれるリダイレクトという設定を忘れたまま、ダイアリーの記事が一切更新もなにもできなくなってしまい、今日に至るわけですが、つい先日、はてなの方が自動でリダイレクト設定をしてくれたおかげで晴れて公開できるようになりました!
コメントいただいていた方、大変申し訳ございませんでした。遅ればせながらようやくご返信させていただきました。

さてさて、そんなわけで、はてなダイアリーと同じように、この春惜しまれつつ幕を閉じたのが、金沢市立新竪町小学校と金沢市立菊川町小学校です。そしてはてなブログと同じように、金沢市立犀桜小学校に統合されて新たなスタートを切りました。
今回は、ブログのリニューアル、新たなスタートということで、同じ境遇にある犀桜校下(正しくは新竪町校下ですね)の旧町名から、山田屋小路二番丁をご紹介したいと思います。

新竪町校下といえば、金沢の牛込地区とわたしが名付けた、古くからの町名が数多く残存する地区です。牛込地区とは東京都新宿区、かつては東京市牛込區だったエリアです。昭和39年(1964年)前後からはじまった住居表示制度によって大量に町名が消滅するなかで、旧牛込区の一帯は住居表示されずに昔の町名が残りました。同じように、新竪町校下のなかでも本多通りをはさんだ北西側の一帯も、牛込地区のように住居表示が実施されず、藩政期から続く町名が数多く残っております。
新竪町(三丁目のみ)枝町川岸町、中川除町、里見町、竪町、鱗町、水溜町、杉浦町、茨木町、池田町、十三間町、油車、下本多町(五番丁、六番丁)などなど。しかしながら、今回ご紹介する山田屋小路は、本多通りの南西側に位置していたため、幸町となって昭和39年に消滅してしまいました。

山田屋小路は「やまだやしょうじ」と読みます。そのまんまです。一風変わった町名は、藩政期から数代にわたって町内に住んでいた「山田屋」という魚屋さんに由来するそうです。おそらく通りの通称として長い間呼ばれていたものと思いますが、正式に町名となったのは明治5年(1872年)です。2つの通り(筋)があり、それぞれ一番丁と二番丁となりました。よっぽど大きな魚屋だったんでしょうね。
…とここまで、消滅した昭和39年よりも後の昭和42年と書かれたデンリョク系電柱番号札をそしらぬ顔で掲載したうえに、山田屋小路を旧町名だと断定して説明をしてきました。ところが実は、よく分からない問題が起こっていたのです。

謎その1。金沢市の公式ホームページ、「いいね金沢」にはなぜか山田屋小路一番丁は旧町名としてリストアップされているのに、山田屋小路二番丁はリストアップされていません。二番丁は旧町名じゃないってこと?

謎その2。石川県版の『角川日本地名大辞典』にも、山田屋小路二番丁は世帯数ゼロの現役町名として記述があります。この辞典は1981年の出版なので、少なくとも1981年までは、二番丁だけが存在していたことになるのです。そこでわたしは図書館で、山田屋小路が消滅したはずの1964年頃から、現存していたはずの1980年頃に至るまでの住宅地図を、あるだけ手当たり次第探してみたのですが、、、やはりどこにも見当たりません。もちろん、現在グーグルマップをみても、山田屋小路二番丁は見つかりません。はてさて地図上見つからない山田屋小路二番丁は、本当に消滅していないのでしょうか?新竪町校下で旧町名が多数残っている本多通りの北西側、山田屋小路二番丁の延長線上からいえば、新竪町小学校(今は犀桜小学校の仮校舎として使っています)の校舎かグラウンドの下あたりにひっそり残っているのかもしれません。徳川埋蔵金のように、掘れば山田屋小路二番丁が出てくるのかしら?
ともかくまあ、私には見えるという霊感の強い方がいらっしゃればご一報いただけますと幸いです。ではではまた。

f:id:cho0808:20180701152632j:plain:w210 
f:id:cho0808:20180701152856j:plain:w210 
f:id:cho0808:20190719222807j:plain:w210 
山田屋小路二番丁の小路(上)
山田屋小路二番丁が眠るはずの金沢市立犀桜小学校仮校舎(新竪町小学校校舎)(中)
山田屋小路が見える方はご一報ください(下)
[発見日:平成30年7月10日]