上鷹匠町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】石引二丁目、石引四丁目
【感想・雑記】完全に味しめちゃった系のイージーモード炸裂の電柱番号札です。失われた当時のものを街角で探し出すことをモットーとするわれわれさがす会にとって、この番号札は手ぬk…もといイージーモードすぎて、ルール違反ではないかと言われております。電柱番号札のなかでも、デンリョク系は昭和○年と書かれているので、かろうじて失われた当時の電柱ではないかと推定できるのですが、今回ご紹介するデンデン系は、昭和○年の記載がないため年代の特定ができていないNGモノなわけです。ただ、この日本電信電話公社のロゴ入りは、今年で電電公社民営化から35年の月日が流れており、すでに時効ともなっているわけです。したがって、今回の掲載にあたっても当然時効が認められるというわけです。そこらへん、全く論理の破綻はないですね?よろしいですね?ちなみにNTTロゴのものはゴロゴロありますが、電電公社ロゴのものは、発見したこれ1本だったかと記憶しています。

さて、そんなデンデン系番号札でご紹介する町名は「上鷹匠町」です。いかにも城下町にありがち系の旧町名です。ウィキペディア情報によると、弘前、静岡、大垣、京都伏見、明石、姫路、和歌山、徳島、高知、大分中津などに現存するそうです。いずれも城下町ですよね。なおお江戸のご城下にも、新宿牛込地区に「市谷鷹匠町」が現存しております。これらはおそらくいずれも「たかじょうまち」と「まち」読みするものと思います。場所は、小立野台のメインストリート、石引大通りの裏通り、本多の森側の小路にあたります。大きなお屋敷が多く残る閑静な住宅地になっております。小立野・末の山の方から順に、上鷹匠町、中鷹匠町、下鷹匠町がありました。このうち下鷹匠町は、明治19年(1886年)に出羽町練兵場ができたときに練兵場に吸収されたそうです。金沢の郷土史家、森田柿園(平次)が著した「金沢古蹟志」にも「明治十九年陸軍營所の御用地と成り、この町地悉く絶えたり」とあります。しかしながら、なぜかことごとく絶えたはずの「下鷹匠町」の電柱番号札も見つけたわけで、電柱番号札の信ぴょう性や如何にといったことになってくるかもしれません。

鷹匠町の由来は、いわずもがな、古来より行われてきた鷹狩りにて、主君に仕えて鷹の飼育や訓練を行った専門職「鷹匠」にあります。金沢市のホームページによると、「寛文2年(1662年)から、藩の鷹匠組の邸地や鷹部屋がここにあったので、この名がついた」とのこと。藩政期は通称された地名だったのか、正式な町名となるのは明治4年(1871年)のことだそうです。鷹狩りは武士のたしなみとして愛好されましたが、武芸の鍛錬でもあり、野山を駆けまわり足腰の運動にもなることから現代のゴルフに近い感覚であったのかもしれません。さしずめ鷹匠はレッスンプロみたいなものでしょうか?ちなみに5代将軍徳川綱吉公が生類憐みの令で鷹狩りを禁止したのは有名なお話しですね。もっとも8代吉宗公の時代に復活してしまいますが。。。

実は、現代にも鷹匠がいて、伝統の放鷹術を今に伝えているのをごぞんじでしょうか。お花やお茶のようにいろいろな流派があったようですが、今では諏訪派などの限られた流派が残るのみです。今年は残念ながら中止になってしまいましたが、わたくし昨年の百万石まつりの盆正月イベントで、諏訪派の鷹匠の方々による放鷹術の実演公開があったので見にいってきました。勇猛な鷹が大空を舞う様子は迫力満点。ぜひ一度みてみると面白いと思います。

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閑静な鷹匠町界隈(上)
ことごとく絶えたはずなのになぜか残る「下鷹匠町線」の番号札(中)
現代の諏訪派鷹匠と鷹(百万石まつりの盆正月より)(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ、金沢市ホームページ、ウィキペディア
[発見日:令和元年5月5日]