西町藪ノ内通

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【一部消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】尾山町、西町藪ノ内通
【感想・雑記】こんばんは。0808cho(おやまはっちょう)です。尾山八町のひとつである西町には、一番丁から四番丁、そしてこの「西町藪ノ内通(にしちょうやぶのうちどおり)」があります。このうち三番丁と四番丁と藪ノ内通は、現役で活躍する町名です。ん?ということは…そうです。またやってしまいました、ずるずるとズルしてばかりのズル紹介、です。でも、今回はいいんです。なぜならばおめでたい日だから。なんと!100点満点中90点を獲得して、金沢検定の初級に合格しましたー!ゆめゆめ初級とあなどるなかれ。今年、初級の合格率は、2,365人中164人で6.9%の狭き門でしたのよ。過去問とかも全くやらなかったのですが、ウィキ先生情報の寄せ集めみたいなこの日記のネタ選びをするだけでもけっこう勉強になってるみたいデス。来年はこの調子で中級にチャレンジしましょかね。

西町藪ノ内通は、市内中心部の目抜き通りである百万石通り(国道157号)と並行する裏通りにある町です。タテの糸が藪ノ内通なら、ヨコの糸が一番丁〜四番丁、という関係性といえばよいでしょうか。このうち、西町一・二番丁寄りのあたりは尾山町になって消滅しましたが、三・四番丁側の一画だけがかろうじて残りました。藪ノ内通の由来は、この通りの付近が、かつて藪の中にあったからです。百万石通りといえば、旧北国街道です。どうしてこんな目抜き通りの付近が「藪の中」なん?ひょっとして真相も「藪の中」なんなん?

さて、とつぜん話しは変わりますが、東照宮が建てられた金沢城北の丸から、西町に下る坂を甚右衛門坂といいます。加賀一向一揆本願寺側の浪士・平野甚右衛門が、佐久間盛政軍の攻撃にあい、壮絶な討ち死にした場所だそうです。
そんな甚右衛門坂の下、ちょうど大谷廟所のあるあたり一帯には、戦国時代末ごろ、バテレン屋敷があったと伝えられています。バテレン(伴天連)とは、キリスト教徒、つまりキリシタンのことです。ポルトガル語で神父を意味するパードレ(padre)が語源だそうです。
100年近くも一向宗(浄土真宗)の支配が続いた金沢の地に、なぜキリシタンのお屋敷が作られたのでしょうか。そのカギをにぎる人物が高山右近という戦国武将です。

高山右近といえば、キリシタン大名の代表として教科書にも必ず名前の出てくる人物です。その高山右近が金沢にやってきたのは、天正16年(1588年)、右近が36歳のことでした。高山右近は、秀吉による九州征討で大いに手がらを立てましたが、天正15年に、とつぜん秀吉がバテレン追放令を出したことによってその身分を追われることになります。信仰を棄てるか領地を捨てるかの選択に、(表向きには)信仰を棄てた黒田官兵衛に対して、右近は、それすらも拒絶して信仰を守ったのだそうです。
領土を追われて流浪の旅を続けていた右近に救いの手をさしのべたのが前田利家でした。利家は、「金沢へ来たりたまえ。三万石ばかり合力すべし」とすすめたのにたいして「禄は軽くとも苦しからず。耶蘇寺(キリスト教会)の1ヶ寺建立下さらば参るべし」と答えたのだと伝わっております。そんな右近を頼って金沢に逃れてきたキリシタンたちのお屋敷が、現在の大谷廟所付近にあったのだと思われます。それにしても、現在、浄土真宗の納骨堂のある場所が、東照宮神護寺だったりキリシタン屋敷だったりしただなんて、何だか面白い話ですよね。

こうして金沢にやってきた高山右近ですが、徳川家康の禁教令によって国外追放され、マニラでおなくなりになるまで、利家・利長と二代に渡って仕えました。
右近は、特に築城技術にすぐれた武将でした。利長公が、徳川家康に謀反の疑いをかけられた慶長の危機事件で、いくさもやむなしとなったときに、金沢の町全体に堀や土居(土手・堤)をめぐらす大工事をわずか27日間でやりとげました。その堀は内惣構とよばれて、大部分が埋めたてられたり暗渠になったりしていますが、一部は今も現存しています。以前、穴水町二番丁材木町七丁目の回でもご紹介しましたが、のちに篠原一孝によって外惣構も作られたので、金沢城下は町全体が二重のお堀で囲まれた「環濠都市」として知られています。
惣構は、内惣構・外惣構それぞれが東と西に分かれていましたが、今回ご紹介した西町藪ノ内通は、ちょうど西内惣構のあたりに位置していました。藪ノ内通のうちでも、消滅した側(尾山町)の一帯は、いまも「以前は土居だったよ感」が残ってます。
土居には竹などを植えて守りを固めたのであたりは竹やぶ、すなはちこの一帯は藪の中だったのだ、ということでガッテンいただけましたでしょうか?

最後になりますが、とっておき情報です。西町藪ノ内通には地元でも有名なおでん屋さんがあります。なんでもうまいよ!さむーいこの時期、右近の偉業に思いを馳せつつ西町界隈をお散歩したあとは、ウコンをしっかり飲んでからおでん屋さんであったまるのがよいでしょう!

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甚右衛門坂(上)
広坂・金沢カトリック教会の高山右近像(中)
尾山神社前・わずかに残る西内惣構堀のなごり(下)
[参考文献:北國新聞社(2003)『高山右近 加賀百万石異聞』、森田平次(柿園)(1976)『金澤古蹟志』歴史図書社]
[発見日:平成25年11月9日]