森町三番丁

f:id:cho0808:20170226123825j:plain:w300 
【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】扇町
【感想・雑記】2017年1発目の投稿です。枝町→木町→森町までいっきにご紹介するつもりが、木が森になるのにほぼ半年かかってしまいました。まあこれも、パソコンが実家に置きっぱなしというのが大きな理由です。決してさぼりまくってたわけではございません。

さてさて、今回ご紹介する森町(もりまち)ですが、一番丁から三番丁までありました。昭和41年の住居表示によって、全て扇町の一部となりました。扇町やお隣りの暁町は、ざっとあげただけでも、森町のほか、御小人町、裏御小人町、九枚町、火除町、銀杏町、柿木町、吹屋町、馬場崎町、田町など、いくつもの町が消滅して誕生した町なので、旧町名の遺産もかんたんに見つかるだろうとタカをくくっていたのですが、びっくりするくらい見つかりません。電柱番号札すらも見つからないんですよ!今回、なんとか昭和40年製の「森町三」の電柱番号札が見つかったので、かろうじてみなさまに報告することができております。

森町三番丁は、ちょうど賢坂辻の付近、兼六園下の交差点から金沢大や山側環状方面にのびた「兼六大通り」と並行するせまい通りに沿って町立てされています。このせまい道を旧材木町側から突き進むと、突きあたりに、突如として大きなお寺が見えてくるではありませんか。このお寺は広済寺というお寺で、山号を武佐山といいます。
武佐の広済寺といえば、滋賀県近江八幡市武佐町にある太子山広済寺がご本家(ご本山?)になります。JR琵琶湖線近江八幡駅から近江鉄道に乗り換えて一駅の武佐駅が最寄り駅です。こちらの広済寺さんは、太子山というだけあって聖徳太子の勅命で建てられたとされる歴史の古いお寺で、お寺の名前は、経文にある「広く衆の危難を済く(たすく)」からとられたものだそうです。
近江八幡の広済寺さんは、嘉禎元年(1235年)に浄土真宗に改宗しました。100年続いた加賀の一向一揆のとき、現在の金沢城のあたりにあった尾山御坊(加賀一向宗大本山)の看房職という役目に就くため、近江八幡の広済寺10代目祐念さんの次男、祐乗さんが金沢に派遣されたのが、金沢の広済寺のはじまりだそうです。当時、広済寺は尾山御坊のそばにあったようですが、尾山御坊陥落などいくつかの危機を乗り越えて、江戸時代には現在の場所に移転してきたとのこと。

ここで急に話しは変わりますが、尾山御坊の時代、金沢で最初の町が誕生しました。その町が尾山八町とよばれており、西町、南町、堤町、後町、近江町の5町がなかでも最も古い町とされています。と、ここで、勘のよいみなさまもうお気づきですね。最古の町のなかに「近江町」が含まれていることに。
近江町の由来は諸説あるようですが、広済寺さんとともに近江商人が移り住んできたのがはじまりとする説があるようです。さらにさらに、現在、近江町市場のある「武蔵ヶ辻」という地名の起こりとして、近江の広済寺から祐乗さんが移ってきたのが現在の武蔵ヶ辻ということで「武佐の辻」といったのが由来だとする説もあるとのこと。

以上、金沢の中心地、武蔵ヶ辻やら近江町の由来ともいわれる由緒正しきお寺、武佐の広済寺さんのある森町三番丁のご紹介でした、と終わりたいところでしたが、『角川日本地名大辞典』によれば、武佐の広済寺さんがあるのはお隣りの旧御小人町とのこと。がーん。。。

f:id:cho0808:20170226123835j:plain:w210 
f:id:cho0808:20170226124604j:plain:w210 
f:id:cho0808:20170318162426j:plain:w210 
旧材木町側から見た森町三番丁の通り(上)
武佐山広済寺(中)
武蔵ヶ辻バス停前から見た近江町市場(エムザ口)(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、市民が見つける金沢再発見(ホームページ)、石川滋賀県人会(ホームページ)]
[発見日:平成29年2月26日]