與力町四番丁

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】宝町
【感想・雑記】今回ご紹介するのは、金沢を代表する河岸段丘、小立野台地にあった与力町です。旧字体で書くと與力町。かつての與力町の町域の大半は、大学病院(金沢大学附属病院)の敷地です。人の住まう町としては、かろうじて與力町一番丁と四番丁だけ町として残っていたのですが、昭和39年(1964年)に消滅して「宝町」となってしまいました。

このたび掲載した表札ですが、6年も前に撮ったもので、すでにお宅は取り壊され駐車場になってしまって今はもうありません。地番合併とあるかなり珍しい表札かと思いますが、おそらくすでに廃棄されてしまっているでしょう。ある意味、文化財にも相当するお宝だと思うのですが、こういった旧町名の遺構やお宝、なんとか保存することはできないものでしょうか。どうでしょうか。
なお、今回の表札、肝心の與力町の字がだいぶ崩されたり擦れたりして読みづらくなっていますが、なんとなく「與」?あと「四」の字がかろうじて読めるかんじでしょうか。どうでしょうか。まあ見つけた場所は間違いなくかつての與力町四番丁なので、そう書いてあると信じてさきに進みましょう。

與力町の町名の由来ですが、城下町らしい金沢ならでは、藩士の身分である「与力」に由来します。(以降は一般的な新字体の「与力」としますね)「与力」とは、藩主にお目見えのできないお目見え以下と呼ばれる身分で、禄高は60から300石程度(といってもぴんときません)です。原則一代限りの身分だそうです。加賀藩では、最下級の身分から順に、中間・小者、足軽【ここまでが軽輩】>御歩、与力【ここまでがお目見え以下】>平士、人持、年寄衆【お目見え以上】>加賀八家まで。このように武士階級は階層構造になっていました。江戸の幕府、各藩もだいたい同じですが、藩や時代によっても呼び名が少しずつちがうようです。与力町には与力階級の武家地として、大きなお屋敷が何軒もあったということなのです。

さて、そんなお屋敷の中に、この地に住んでいた与力が代々丹精込めて育てた樹齢数百年の松があり、13代藩主の前田斉泰公がぜひとも兼六園に移したいと望んだのですが、あまりの大きさに断念し、代わりに維持費として五人扶持(一人扶持は1人1日玄米5合だそうです)を与えて「天下に得難い松だから心して手入れせよ」と命じたといういい伝えが残されているそうです。この松は今もお屋敷で大事に育てられており、その名も「五人扶持の松」と呼ばれております。
のちにこのお屋敷は、実業家で、参議院議員でもあった林屋亀次郎のお屋敷となりました。現在、このお屋敷は亀次郎さんが開学した北陸大学の教養別館(「林鐘庵」とも呼ばれてるそうです)となっています。一般公開はされていませんが、ときどき特別公開されます。昨年夏も「かなざわ・まち博」で限定公開されました。

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旧與力町四番丁界隈(上)
大半が與力町内にある金沢大学病院(中)
五人扶持の松のある北陸大学教養別館「林鐘庵」(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成25年11月10日]