高岡町上藪ノ内

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】高岡町、香林坊二丁目
【感想・雑記】 先週(1/17)の「情熱大陸」で、「つる幸」の河田康雄料理長が取り上げられていました。「つる幸」さんといえば金沢を代表する割烹料亭です。がしかし、わたしは行ったことがありません。前回の台所町でとりあげたのが、「武士の献立」の舟木家でしたが、河田料理長は、まさに現代の舟木安信ではないでしょうか。(伝内さんは、もちろん先代の三朗さんです)

さて、そんな「つる幸」さんは、高岡町にございます。二代藩主の利長公が慶長14年(1609年)に越中高岡の町を開町されましたが、その後、高岡の町から家臣を金沢に戻して住まわせたのが由来となっております。そんな高岡町は現役町名なのですが、今回ご紹介する旧町名は「高岡町上藪ノ内」でございます。

すでに高岡町下藪ノ内はかなり初期にご紹介済みでしたが、今回ようやく上藪ノ内をご紹介できそうです。といってもカマボコ型デンチューでのご紹介であいすみません。上藪ノ内は今の町名で香林坊、すなわち金沢イチの繁華街でございますので、まだデンチューが残っていただけでとよしとしましょう。しかも古いタイプのカマボコ型の電柱番号札ですし。

なぜ、金沢の一等地である香林坊付近が、当時藪の中だったのかについては、西町藪ノ内通の回でもご説明しました。「惣構」という、金沢城下を防御する目的で作られた堀や土居があったことから、このあたりは盛り土された雑木林や竹藪の生い茂る町だったと想像されます。
ちなみに「惣構」は「内惣構」と「外惣構」があり、さらにそれぞれ、東と西に分かれて呼ばれることが多いです。このうち、西町でご紹介した藪が「西内惣構」であるのに対し、高岡町の藪は「西外惣構」の土居にあたると思われます。「西外惣構」のお堀は、鞍月用水と混ざって流れています。鞍月用水は、山出前市長によって暗渠部分が開渠されてから、「せせらぎ通り」と呼ばれて、用水沿いの街並みに、おしゃれなカフェやらパン屋さんやら古本屋さんのたち並ぶおしゃれスポットとなっております。

この「外惣構」を作ったのが、築城の名人で出羽守の篠原一孝です。一方、「内惣構」を作ったのが、キリシタン大名で有名な高山右近です。秀吉に追放された高山右近は、天正16年(1588年)、利家公に招かれます。その後、利長公にも仕え、相談役として活躍しました。慶長19年(1614年)のキリシタン国外追放令を受けて、まわりの人々が引き止めるなかマニラに渡りますが、その翌年にお亡くなりになりました。
そんな高山右近が、最高の崇敬対象である「聖人」に次ぐ「福者」として、バチカンローマ法王庁から認定を受けたとのニュースが入ってまいりましたので、高岡町にある「外惣構」の話題よりも先んじて取り上げてしまいました。出羽守の篠原一孝につきましてもそろそろ取り上げないといけないですね。ではまた。

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「つる幸」さん(上)
せせらぎ通り手前の土手感残る場所(中)
主計町緑水苑の西内惣構跡(下)
[発見日:平成25年3月17日]