裏古寺町

f:id:cho0808:20120430103441j:plain:left:h300【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】片町二丁目
【感想・雑記】11月末から12月上旬にかけて、金沢は「ほんこさん」のまっただ中です。「ほんこさん」とは、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人のおなくなりになった11月28日に合わせて、親鸞聖人の恩に報いる日、生きとし生けるものに感謝する日です。正式には「報恩講(ほうおんこう)」といいますね。北陸地方は広くほんこさんで通じるようです。
そのほんこさんで食べるものといえば「いとこ煮」です。わたしは「いとこ汁」とよんでましたけど。わたしの知ってるのは小豆とイモと豆腐の味噌汁ですが、カボチャやら大根やら入れたりするそうです。大豆と小豆が兄弟で、豆腐は大豆の子どもだから、いとこ汁(本当はおいっこ汁?)、と思ってましたが、ウィキ先生によれば、固い野菜からおいおい、めいめいにいれて煮ていくことから、おいおい(甥甥)、めいめい(姪姪)にかけて従兄弟煮なのだそうですよ。

さて、金沢をはじめとする北陸地方は、真宗王国ともよばれるくらい浄土真宗の栄えた地方です。約90年もの間、浄土真宗(一向宗)の支配がつづいた一向一揆は有名ですね。大名不在の加賀国は「百姓の持ちたる国」といわれたほどです。織田信長と対立し、信長の家臣であった柴田勝家の軍勢、佐久間盛政によって制圧されて一向一揆終結しますが、、、一向一揆のお話しはまた別の機会に詳しくお話しすることにしましょう。

元和2年(1616年)、前田利常公の時代、一揆の防衛策として、浄土真宗のお寺は城下にばらばらと散在させるいっぽう、それ以外のお寺を集積させるという城下町の整備が行われました。そのときにできた寺院群が、小立野寺院群卯辰山麓寺院群寺町台寺院群の3つですが、それ以前に、現在の片町商店街の裏通りに寺院群=寺町があったのだそうです。これらのほとんどが、元和年間以降、寺町台に移されて、残った町は古寺町とよばれました。その古寺町のさらに裏にあったのが、今回ご紹介する裏古寺町です。

裏古寺町は、前述のとおり、金沢の中心繁華街である片町の裏通りのさらに裏、木倉町通りのなかほどにある木倉町広場のあたりとなっています。現在、このあたりには「鬼川の聖天」とよばれている「養智院」というお寺があります。このお寺は、天長元年(824年)の創建というかなり歴史のあるお寺です。本尊の地蔵菩薩弘法大師空海さんの彫ったものだとか。なんでも5代藩主前田綱紀公の夢枕にこの地蔵菩薩が現れて、「養智院は鬼川の守護のために永く残し置かるべし」との言葉を残したと伝えられています。そのため、このお寺だけは移転されることなく、今も古寺町に残っているということです。
「鬼川」というと名前が少しおどろおどろしいのですが、「御荷川」とも書きます。穴水町でもご紹介しましたが、金沢二水高校の校名の由来の一説ともなっている大野庄用水のことです。
大野庄用水は、金石や大野の湊から木材などのお荷物を運ぶのに使われました。お荷物の川、お荷川。この地がちょうど金沢城の裏鬼門にあたることから「鬼川」とあて字されており、養智院が鬼川の聖天、つまり大野庄用水の守護神ということになるのだそうです。

もうひとつ。裏古寺町といえば、映画『武士の家計簿』にて、今年の顔ともいうべき堺雅人さんが演じた猪山直之をはじめとする猪山家の人々のお屋敷のあった場所です。現在はコンビニになっていて、生家跡の立て札が掲げてあります。
猪山家の人々は、代々御算用者とよばれるお役人でした。勤め先の御算用場というのが現在の尾崎神社のすぐお隣りにありました。なお御算用場とは、藩の財務・会計を担うお役所だったということです。どこの藩にもありそうなものですが、加賀藩の情報しか出てこない。。。なぜ?

今回、この日記を書くにあたって、ようやくというかなんというか『武士の家計簿』はじめ、磯田道史先生の書かれた本を何冊か読みましたが、どれも非常に面白かったです!!
特に『殿様の通信簿』には、西町の回でも話題にした、前田家(利常)と徳川家との確執が非常に面白く、そして分かりやすく書かれていて、いっきに読みあげました。新潮文庫でお買い得だし、興味のあるかたにはぜひ!オススメですよ!

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報恩講で食べた「いとこ汁」とお餅(上)
潤光山養智院(真言宗)(中)
猪山家の屋敷跡(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見、金沢・てくてくマップ-散歩学-]
[発見日:平成24年4月30日]