【福岡市】下普賢堂町

f:id:cho0808:20130629145228j:plain:left:h350【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】福岡市博多区上呉服町
【感想・雑記】博多タイ。福岡出張がまた忙しくなってきました。更新頻度低下ぎみです。金沢〜博多間は特急サンダーバードと新幹線で約5時間半。ちなみにわたしの会社、飛行機出張の許可が降りません。福岡空港は、博多駅から5分という国内でもっとも便利な空港ともいわれているにもかかわらず、です。まあ飛行機はちょっと苦手なので別にいいんですけどね。
ところで、7月の福岡の街をいろどるものといえば、なんといっても「博多祇園山笠」の大きな山車(舁き山、正確には飾り山)です!7月1日から15日まで、福岡市内の中心部で開催される「博多祇園山笠」は、700年以上の歴史を誇る、福岡を代表するお祭りとなっております。ちなみにGWに開催される「博多どんたく」も有名ですね。

さて、じつはここまで「福岡」と「博多」を交互に使ってきたのにお気づきでせうか?「福岡」なのか「博多」なのか、生くべきか死ぬべきか、シェークスピアも大いに悩んだ問題です。
市の名前は「福岡」市、駅は「博多」駅、空港は「福岡」空港、山笠もどんたくも明太子も通りもんも「博多」。。。ウーン。ヨ〜ワカランタイ!
この「福岡か博多か問題」については、次回詳しくお話しする予定ですので、ここでいう博多の街とは、福岡市博多区の一部で、博多駅の博多口(西口)から北西に広がる一帯で、御笠川より西側で、那珂川より東側で、地下鉄祇園駅中洲川端駅呉服町駅のあるあたり、という理解でひとつおねがいいたしやす。

…と、前置きが長くなりましたが、今日は番外編で、博多の街の旧町名、「下普賢堂町」をご紹介いたします。が、失われた当時の標識をご紹介するのが趣旨なので、明らかに最近作られたと思われる看板の今回は、完全に趣旨から外れたご紹介です。それにしても博多の街は、失われた当時の旧町名を残したモノがいっさい見つかりません。東京や金沢ではわりとすぐに見つかるのに。。。電柱番号札も、金沢のような時代モノは皆無でした。
今回ご紹介する下普賢堂町(しもふげんどうまち)ですが、博多の七堂とよばれた堂(普賢堂・辻の堂、石堂・奥の堂・萱堂・脇堂・瓦堂)のひとつ、普賢堂があったことに由来します。江戸時代には普賢堂町下と呼ばれていたものが、明治7年(1874年)に下普賢堂町となり、昭和41年の住居表示の実施まで存在しました。場所は地下鉄呉服町駅のあたり、現在の町名は上呉服町です。

現在の博多の街は、安土桃山時代に戦火で荒廃した一帯を、豊臣秀吉公が策定した区画整理事業により再興したものが原型となっているそうです。これを太閤秀吉公にちなんで「太閤町割り」と呼ぶのだとか。この太閤町割りされた博多の街は、左ななめ(北西寄り)に傾いた、碁盤の目状となっています。この碁盤の目の通りに沿って「流(ながれ)」というグループができています。「流」とは、碁盤の目の縦横筋にある複数の町をひとまとめにした組織?集合体?で、博多独特の概念となっています。今は「山笠」などの祭事などでしか意識することはないとのことですが、逆にいえば、いまだにその「流」が生き残っているということは、それだけ「山笠」が博多の人々の社会生活にとって重要な位置づけを占めていることのあらわれともいえましょう。「流」は時代の流れとともに再編されて、現在は7つの「流」になっています。下普賢堂町は写真にもあるとおり「東流」に属します。大博通りの東側、大通りと並行に走る東町筋を中心とした「東町流」に、「櫛田流」や「福神流(魚町流)」が合流したものだそうです。

今回は、最後に下普賢堂町のある「東流」の舁き山(飾り山)をご紹介して番外編第一弾をしめたいと思います。なお、博多シリーズは次回も続く予定です。
とにかく、7月前半はお祭り一色だったのにもかかわらず、出張が7月16日からだったため、15日最終日の朝4時59分にはじまるという勇壮な「追い山」は見ることができませんでした。残念。。。

f:id:cho0808:20130715090026j:plain:h210 
f:id:cho0808:20130715090817j:plain:w210 
f:id:cho0808:20130629145359j:plain:w210 
東流の舁き山(上)
博多山笠のマネキン坊や(中)
下普賢堂町界隈(下)
[参考文献:ウィキペディア(流)http://www.yamakasa.net/60-2
[発見日:平成25年6月29日]