【石川縣石川郡】鶴来町新町

f:id:cho0808:20170408140017j:plain:left:h300【消滅した年】平成17年(2005年)
【現在の町名】白山市鶴来新町
【感想・雑記】前回に続いて鶴来町です。鶴来町は、昭和29年(1954年)の昭和の大合併によって、もともとの鶴来町と一ノ宮村、蔵山村、林村、舘畑村とが合併して新たに鶴来町となりました。白山市になったあとも、鶴来駅周辺にあたる旧鶴来町の町名だけは、◯◯町→鶴来◯◯町と、鶴来を冠して名乗っていいことになってます。いわば猿楽町→神田猿楽町、坂町→四谷坂町みたいなもんす。だから今回の新町も旧町名といってよいよね☆

鶴来(つるぎ)という名前の由来は、旧鶴来町日詰町にある金劔宮(きんけんぐう)という神社にあります。古くは劔宮(つるぎのみや)とも呼ばれ、このあたりの集落も「劔(劍)」と呼ばれるようになりました。藩政期以降に「鶴来」の字が当てられるようになったそうです。
金劍宮の秋の大祭は、ほうらい祭りとして知られ、鶴来の旧町内を巨大なつくりもんが練り歩きます。また、初老(40歳)の厄年を迎えた衆が祭り唄を歌いながら神輿を担ぐのは、金石町の夏季大祭と同様の伝統神事のようです。

さて、本町や新町のほか、今町、古町、上東町、知守町、日詰町といった鶴来町の旧町名ですが、いかにも藩政期から続く町にありがちネームです。さぞかし歴史ある町名なのかと思いきや、意外なことに昭和29年(1954年)に誕生した新しい町なのだそうです。本町は別にしても、今町、新町、古町などのネーミングセンス、昭和にしては古すぎやろ!と思ってたのですが、すぐに理由が分かりました。実は、本町や新町などの町名は江戸時代の文献からも見られる通称町名だったのです。これは想像ですが、高岡市戸出町のように、鶴来村だった頃には、本町や新町や今町や古町といったご城下風の町立てが許されなかったのではないでしょうか?
ところでわたくし、とある発見をしました。詳しくは地図アプリをご覧ください。鶴来町付近の地図を見ると、町をまたいでイロハ小字が付けられているのがわかります。たとえば、鶴来本町二丁目ワと鶴来古町ワや、鶴来新町タと鶴来清沢町タと鶴来今町タは、それぞれ隣接しています。実は、地番もどうやら同じワやタの中では重複しないように付けられているようなのです。
つまり、どういうことかといいますと、鶴来町の旧市街地は、本町二丁目や新町といった町名がなくても、鶴来町ワ◯番地、鶴来町タ△番地だけで場所が特定できてしまうはず、ということなのです!
今回発見した旧町名の表札はいずれも旧字体の漢字を使ってることからも、ひょっとしたら、正式に町立てされる昭和29年以前のものかもしれません。もしくは昭和29年の正式な町立てを記念して作られたものかもしれません。どちらにしても、住所を特定するのに本来不必要なはずの「本町二丁目」や「新町」といった町名、藩政期から名乗りたくとも名乗れぬまま、脈々と守り続けてきた町名への愛と誇りを感じずにはいられません。たかが町名、されど町名。まさに、我々さがす会スピリッツを体現した歴史遺産といえなくもないのではないでしょうかといえるかもしれません!!

以上は、あくまでわたしの推論および実感に基づくものであり、実際の効果・効能を示すものではありませんのであしからず。

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金劍宮(上)
ほうらい祭りのつくりもん(中)
鶴来町新町界隈(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、『鶴来町史 歴史編 近世・近代』鶴来町史編纂室(1984年)、ウィキペディア
[発見日:平成29年4月8日]

【石川縣石川郡】鶴来町本町二丁目

f:id:cho0808:20140503175236j:plain:left:h300【消滅した年】平成17年(2005年)
【現在の町名】白山市鶴来本町二丁目
【感想・雑記】平成の大合併から早いもので10余年経ちました。旧町名をさがす会としては、市町村合併による消滅は本来捜索の対象外なのですが、「石川縣」と旧字体で書かれた歴史のありそうな旧町名を発見しておりましたので、いつもどおり例外的にご紹介したいと思います。

旧石川郡鶴来町は、金沢市の南のほうに位置する郊外の町で、金沢の市街地から15kmほど離れています。平成17年(2005年)、いわゆる平成の大合併により、松任市美川町のほか、白山麓の5ヶ村(河内村鳥越村吉野谷村尾口村白峰村)と合併して白山市となって消滅してしまいました。

白山市、ということで、白山の話題にも触れたいと思います。白山は、石川県(白山市)と岐阜県(白川村)にまたがる標高2,702mの山で、富士山や立山とともに日本三名山(三霊山)といわれる山でもあります。養老元年(717年)、泰澄上人による開山と伝えられておりますので、昨年の平成29年(2017年)がちょうど開山1300年にあたる年でした。絶好のタイミング逃しちゃってた!しまったよ!

さて、その白山ですが、古くから白山信仰のある霊峰として知られており、白山比竎(比め)神社は、全国に二千社以上あるといわれる白山神社の総本社です。鶴来町は、その白山比め神社の門前町(鳥居前町)として、古くから市場が開かれるなどして栄えてきたそうです。ちなみに白山比め神社は、加賀国の一之宮で、地元では「しらやまさん」の名で親しまれています。

ところで、しらやまさんは加賀国一之宮なのに、なぜか白山市三宮町にありますが、その白山市三宮町は、平成の大合併までは石川郡鶴来町三宮町でした。そして、昭和の大合併前の昭和29年(1954年)までは石川郡一ノ宮村(大字)三宮で、その3年前の昭和26年(1951年)までは石川郡河内村(大字)三宮で、さらにさかのぼること、明治の大合併前の明治22年(1889年)までは石川郡三宮村だったのです。つまり長い目で見ると、しらやまさんは鶴来町にあったといっていいのか、はたまた河内村なのか何なのか、非常に断定しづらいところもあるようなないような感じということなのです。まあ、鶴来町河内村も合併しちゃって今は同じ白山市なので、ちっちゃいことは気にしない!
なお、しらやまさんへは、つい最近まで、北陸鉄道石川線野町駅から加賀一の宮駅までのびていたのですが、平成21年(2009年)に廃駅となり、鶴来駅が終点となってしまいました。ただ、風格のある駅舎や線路跡がまだ残っておりますので、廃線マニアの方は是非お越しください。

ということで、今回、石川縣石川郡鶴来町本町二丁目の紹介を一切しないままお時間がきてしまいましたので、次回完結編、地図マニアの方必見の内容でお届けする予定です。

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加賀国一之宮のしらやまさん(白山比め神社)(上)
今も残る加賀一の宮駅舎(中)
北陸鉄道金名線廃線跡(下)
[参考文献:ほぼウィキペディア
[発見日:平成26年5月3日]

金石相生町

f:id:cho0808:20120805145139j:plain:left:h300【ほぼ消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活するかもしれない年】ナントカ2年(2020年)頃?
【現在の町名】金石北一丁目、金石北二丁目、金石北三丁目、金石北四丁目、金石相生町
【感想・雑記】金石相生町(かないわあいおいちょう)は、金石町の郊外にあたるわりと広範囲な町域です。現在の金石北一〜四丁目の各一部で、最後にのせた地図の大部分が、かつての金石相生町になります。なお、地図の右上に「金石相生町」の文字が見えますが、実は道路と雑木林と砂浜だけからなる一区画にわずかに残っているようです。

相生町という地名は全国にありますが、明治時代に急増した瑞祥地名のひとつです。瑞祥地名とは、縁起のいい名前をつけた地名のことで、似たような意味の地名として、高砂町、千歳町、老松町、弥生町などがあります。「相生い」「相老い」などにも通じ、合併を祝って付けることも多いそうです。金石相生町も、慶応2年(1866年)に宮腰町と大野町が合併したときにできたお祝いの地名のようです。(宮腰と大野との合併の話についてはこちらの日記も参考のこと)

さて、金石相生町(石川郡金石町字相生町)といえば、戦前の一時期、現在の金石町小学校の建つ場所に「涛々園」という遊園地がありました。大正14年(1925年)に金石電気鉄道が開園・運営したテーマパークで、演劇場、動物園、相撲場、大浴場などがあり大変賑わっていたそうですが、戦時中の昭和18年(1943年)に閉園してしまいました。また、ほぼ同時期に浅野川電気鉄道社長の平澤嘉太郎さんが、近くの粟ケ崎(というか内灘?)に粟ケ崎遊園を開園しますが、こちらも昭和16年(1941年)に軍に接収されて閉園しています。涛々園も粟ケ崎遊園もどちらも、阪急・小林一三・宝塚遊園地のミニチュア版といった感じだったのでしょうか。
なお、現在は卯辰山で開催される相撲の甲子園、高校相撲金沢大会は、当初金石海岸の日和山で開催されていましたが、大正15年(1926年)から涛々園が大会会場となり、涛々園が閉園してからも昭和26年(1951年)まで開催が続いたということです。
そして翌年の昭和27年(1952年)には、金石御塩蔵町校舎から金石町小学校が移転してきて現在に至ります。当時の名残なのか、わたしが通ってたころの校庭には相撲場がありましたが、今もあるんでしたっけ?

本日最後は、金石相生町で発見したデンリョク電柱番号札に書かれていた「涛々円」をご紹介して締めくくります。「涛々園」ではなく「涛々円」!いやーデンリョク電柱番号札は奥深いわー。

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金石相生町あたりの地図(mapion)(上)
「涛々円」のデンリョク電柱番号札(下)
[参考文献:ほぼウィキペディア、いいね金沢(金沢市ホームページ)など]
[発見日:平成24年8月5日]

金石味噌屋町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活するかもしれない年】平成30年(2018年)?
【現在の町名】金石西二丁目、金石西四丁目
【感想・雑記】前回に続き金石シリーズ、塩の次は味噌です。石川県、いや北陸のソウルフード8番ラーメンはわたくし断然味噌派です。鍋にはもちろんマツヤのとり野菜味噌です。サッポロ一番もみそ派です。でも本当は石川県民なので、イトメンのチャンポンめん派です。それにしても、兵庫県の龍野発祥のイトメンがなぜ石川県民に愛されているのかしら。
ところで、今回ご紹介する金石味噌屋町の写真、どう見ても最近できた「金石西みそやちょう広場」なので、本来ならもちろんアウトなのですが、今回は、そんなこまかいことはどうでもいいくらい大きな驚きニュースのお話しです。

昨年6月に新聞報道があり、なんと金石地区の旧28町名が数年以内の復活を目指すことになったということです。平成11年(1999年)に主計町が全国で初めて復活したのを皮切りに、全部で11町名が復活した金沢市ですが、平成21年(2009年)に上堤町が復活して以来、約9年間、復活運動が停滞していました。それが、一挙に28町も復活を目指すことになったのです!しかもわがふるさとの金石町で、なのです!!!

おさらいまでにお話ししますと、金沢市の金石地区は、市街地から約6kmほど離れた港町で、昭和18年(1943年)に金沢市と合併するまでは石川郡金石町だったところです。すでにご紹介した金石御塩蔵町、金石冬瓜町、金石湊町、金石下越前町(金石上越前町もあるよ)、金石松原町などの金石◯◯町が30ほどあったのですが、昭和43年(1968年)に例の住居表示により、金石本町のほかは、大半が金石西、金石東、金石北という味気ない住所になってしまいました。
まずは、この金石味噌屋町のほか、金石本町(元の区域に拡大)、金石通町、金石下本町の4町が先陣切って本年(2018年)復活するかも、とのことですが、うち1町は住民の反対により同意が見送られた、というニュースも報道されていました。

最後に、金石味噌屋町の思い出といえば、昔はおまつりの露店が味噌屋町の通りにずらっと並んで、人がごった返してて、日和山の仮御殿まで列が全然進まなかったものですが、去年の夏の大祭、味噌屋町の露店は1軒のみでした。。。なんとも寂しい限りですね。

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夏の金石味噌屋町(上)
夏の日和山の仮御殿(下)
[発見日:平成29年8月4日]

金石御塩蔵町

f:id:cho0808:20120811132204j:plain:left:h300【消滅した年】昭和43年(1968年)
【現在の町名】金石西四丁目
【感想・雑記】流れゆく季節の真っただ中あたりの今日この頃です。今日は3月9日、この日記の連載開始よりちょうど6周年を迎えました。約1年の休載を経ておりますが、旧町名ハンター・ハンターは細々と続いていく所存です。それにしても、前回の日記の話題は、稀勢の里優勝のお話しですよ。ふと、日の早さを感じますね。

で、久々の今回ご紹介するのはわが地元、金石シリーズです。金沢市としての旧町名は金石御塩蔵町(かないわおしおぐらまち)ですが、金石◯◯町の冠称がついてない「御塩蔵町」なので、ひょっとすると、この発見された旧町名の遺構は、昭和18年(1943年)以前の、石川郡金石町時代の御塩蔵町のものかもしれません。

さて、金石御塩蔵町は、名前のとおり加賀藩の塩蔵があったところのようです。金沢の市街地には味噌蔵町がありましたが、こちらは塩蔵です。海辺の街ゆえ、海水からとれる塩の蔵なのでしょうか。ただし、この藩の塩蔵も、明治に入るとすでになくなっていたようです。金石御塩蔵町は、わたしの親よりも上の世代にとっては、小学校のあった場所として知られております。金石町小学校の沿革によれば、明治3年(1872年)に金石集学所として開設し、一時期は金石御塩蔵小学校とよばれた時期もあったようです。昭和27年(1952年)に小学校は現在地に移転して、御塩蔵町の小学校跡地は「にぎわい広場」とよばれています。毎年7月には夏まつりなんかも開催されてにぎわいをみせていますが、ふだんは少しさびしげなただの広場です。

ところで、わがふるさと金石といえば、昨年の2017年6月に驚くべきニュースが発表され、われわれの業界を震撼させましたが、これはまた次回の話題といたしましょう。それではまた。

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金石町小学校の御塩蔵町校舎(上)
御塩蔵町のにぎわい広場(下)
[参考文献:金沢市立金石町小学校ホームページ]
[発見日:平成24年8月11日]

谷町

f:id:cho0808:20170326232541j:plain:h300:left【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】長土塀二丁目
【感想・雑記】タニマチとは、角力角界用語でごひいき筋、後援者のことをいいます。のちに歌舞伎などの芸能の世界やその他スポーツの分野でも使われるようになりました。語源は諸説あるそうですが、大阪の谷町七丁目で開業していた医者が大の相撲好きで、力士をタダで診療してたから、という説が有力とのこと。かつて、大阪春場所になると谷町七丁目界隈に各部屋が宿舎をかまえていたそうです。

大阪・谷町の由来については、かの織田信長公が「日本一の境地(場所)なり」と称したという上町台地の谷にあたることから名付けられたということです。あ、これは一部ブラタモリ情報ね。ちなみに信長公のいた当時、上町台地の高低差のてっぺんには一向一揆の一大拠点であった石山本願寺が要塞のごとくそびえ立ち、陥落後はそこに秀吉公が大阪城を築いたという難攻不落の要所であったことを付け加えておきます。

さて、ようやく本題の金沢・谷町ですが、場所は元車交差点そばで、中央市民体育館(旧長土塀小学校)の昭和大通りをはさんだ向かい側あたりの一画です。こちらの由来は、加賀藩士神谷氏の邸宅があったことに由来するそうです。文政6年(1823年)の町立てで、神谷町を略して「谷町」といわれるようになったそうですので、大阪のタニマチとは何も関係ないようでした。

ところで本日の大阪春場所千秋楽は久々に大興奮しました!!新横綱稀勢の里、あのケガをおして出場し、なんと優勝しました。君が代歌いながら涙ぐむ横綱を見て思わずもらい泣きしてしまったよ。谷町のタニマチのお医者さんではないですが、きちっと治療に専念して夏場所は万全のコンディションで臨んでもらいたいものですね。

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4年前見にいった大相撲大阪春場所
[参考文献:ウィキペディア(タニマチ)コトバンク(タニマチ)、、ブラタモリ(NHK平成28年11月5日放送)、いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成24年10月27日]

芦中町

f:id:cho0808:20120219170930j:plain:h400:left【消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】弥生一丁目、泉一丁目、泉二丁目
【感想・雑記】金沢で旧町名探しをはじめてわりと初期に見つけた蔵出しの芦中町です。そろそろ蔵から出してかんといかん、と思いつつも我が家にパソコンがないのでたまった写真がアップできないんですぅ。

芦中町は江戸時代からの町名で、 金沢市のホームページによれば、「足中町といふは並び短く尻切れたる町なり」と伝えられ、はじめは「足中町」とも書く。だそうです。今は、金沢芦中郵便局にかろうじてその名をとどめておりますが、現在の町名は弥生や泉となって消滅しました。大正13年(1924年)に誕生した新しめの「弥生」という町名が生き残って、江戸から続く「芦中」が消滅したのは、おそらく金沢市立弥生小学校があったからでしょう。「小学校の名前になった町名は比較的残る」という法則が適用されたものと推察されるわけです。しかしながら、今から3年前の平成26年(2014年)には、その弥生小学校もなくなり、野町小学校と統合して泉小学校になってしまいました。

泉小は、現在は野町小校舎を仮住まいとしておりますが、耐震対策を施した新校舎建設がすすんでいるわけなのです。その学校の用地として、金沢大学から金沢市に土地が売却されることになり、金沢大の北溟寮がこの3月末をもって閉鎖されることになりました。おそらく小学校の用地確保にあたっては、誰かが何かに働きかけたとか、契約書が何枚もあるとか、そのようなことはなく、まったくもって適正に行われたものと考えておるわけです。

ところで、このたび閉鎖される金沢大学の北溟寮については、テレビ番組「探偵ナイトスクープ」や、「月曜から夜ふかし」などでとりあげられてすっかり有名になった伝統競技「北溟サーキット」でおなじみなのです。ご存じないかたはネットで調べてみてください。寮にあるU字型のお風呂のへりにまたがって全裸の学生たちが競う伝統競技なのですが、伝統もついに終わりのときをむかえるのです。

春は別れの季節、こうしてひとつの歴史が終わりを迎えるとともに、あらたな歴史が生まれていくものなのでせう。
この連載もこの3月、6年目に突入しました。わりと休みまくりの展開も、蔵出し公開とペースアップでそろそろ終焉の時もみえてくるのでしょうか。。。

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金沢芦中郵便局(上)
閉鎖される金沢大学北溟寮(中)
北陸中日新聞」北溟サーキットの記事(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成24年2月19日]