桜木七ノ小路

f:id:cho0808:20120630175325j:plain:h300:left【消滅した年】昭和38年(1963年)
【現在の町名】寺町二丁目、寺町四丁目、泉野町二丁目
【感想・雑記】花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
4月に入って金沢も連日のぽかぽか陽気。桜も満開の時期を過ぎて、残念ながら一転して肌寒い雨の週末です。今年は何年ぶりかの大雪を経験し、春もずいぶん先だと思ってたら、いつにもまして早く春がやってきました。冬きたりなば春遠からじ・・・ですね。

さて、桜の時期ならではの旧町名、桜木の紹介です。ほうら!この金澤の文字、旧町名専用フォントだよ。ム、チョンチョン、土で構成された「金」の字体と、行書体のサンズイに、ム+手の「澤」の字体。まさか見覚えがないとは言わせないゾ☆
なお、見つけた旧町名の表札には「桜木町七ノ小路」とありますが、正確には「桜木七ノ小路」で「町」はつかないそうです。
場所は寺町台、寺町二丁目と三丁目のバス停の間付近を、野田往還(野田道)から山手(泉野方面)の小路を入ったあたりの町名です。桜木一ノ小路から桜木十ノ小路までありました。こちら藩政期からの町名ですが、よくある◯番丁でなく◯ノ小路というのが珍しい感じです。ちなみに、野田往還をはさんで反対の川手(犀川方面)の小路は、かつて桜畠一番丁から十番丁でした。どちらも桜の名前を町名に持つ桜エリアでしたが、住居表示によって、すべてほぼ「寺町」になってしまいました。
町名の由来は、桜畠も桜木も共通で、桜の木が一帯に植えられていたことによるようですが、現在、このへん一帯に広がるようなお花見スポットはなく、ほぼ住宅地です。なお、桜木のほうは、近くに鎮座まします泉野櫻木神社に由来するともいわれているそうです。(出典:金沢市ホームページによる)

泉野櫻木神社は、尾張名古屋に小さな祠が建てられたのがはじまりとされ、延徳4年(1492年)に泉野の地に移ってきたとされます。明治15年(1882年)に現在の泉野櫻木神社へと改称されました。ちなみにご尊像は、養老元年(717年)に泰澄上人が桜の木で彫ったものと伝えられています。そうです!白山を開山した泰澄上人が白山を開山した年に彫ったご尊像、ということなのです!まだまだ続くよ、白山アレコレ。。また、泉野櫻木神社の標柱の揮毫は木村栄(ひさし)博士によって書かれたものらしいのですが、、、木村栄博士についてはまた別の機会にお話しすることにしたいと思います。もしかしたら次の桜の時期になるかもね?

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泉野櫻木神社(上)
寺町の桜といえばここ(散りぎわの松月寺大桜)(下)

[参考文献:いいね金沢(金沢市公式ホームページ)、市民が見つける金沢再発見、泉野櫻木神社の由緒書き]
[発見日:平成24年6月30日]

蛤坂町

f:id:cho0808:20160131114506j:plain:h350:left【消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】寺町五丁目、野町一丁目
【感想・雑記】目で見るだけが旧町名じゃないよ。心で読めばきっと読める旧町名です。心で読めば、ほーら浮かび上がる蛤の文字。。。?肉眼では決して読めません!
とにかく、文化庁の古文書解析技術ならまだしも、iPhoneの写真加工ではどうにもならないレベルです。ギリギリ肉眼で読めるのは特徴的な字体の「金澤(沢?)」の文字ぐらい。しかしこのフォント、芳斎町味噌蔵町東丁山の上町二丁目高道新町河原町などのフォントと類似しています。「金」のかさ部分が「ム」な感じの頂点に両脇点2つで、「玉」がほぼ「土」の感じとか、「澤」の偏が行書体になってて、旁が「ム」+「手」みたいな感じとか。(イメージ伝わってるかしら?)
ゆえに、これは明らかに時代考証上、旧町名にしかみられないフォントだとガクジュツ的に結論づけられるわけです。あとはひたすら蛤探し。潮干狩るか、信じる心で読むか、文化庁に依頼するしかないでしょう。。。

さて、強引に発見したことにして、蛤坂町(はまぐりざかまち)のご紹介に入ります。蛤坂とは、犀川大橋南詰の交差点から寺町台にあがる坂の名称です。でもって、蛤坂町は蛤坂の下から、坂上にある寺町の忍者寺の手前まで続く町立てです。蛤坂の由来は諸説ありそうですが、かつて妙慶寺坂と呼ばれたせまくて急な坂道だったのが、享保18年(1734年)の大火のあとに道が拡張されたときに、焼けて口を開いたという意味で「蛤坂」と俗称されるようになった、という説が一番あってる気がします。(説は角川日本地名大辞典に記載の説などによる)。「蛤に見える説」もあるけど・・・見えないよ!

【蛤坂町の正しい楽しみ方講座】
突然ですが、蛤坂町の楽しみ方講座の時間です。我々から楽しい旅のご提案です。
1.山錦楼を愛でる。
大正11年(1922年)建築の歴史を感じる美しい建築物です。ちなみにこの建物は今でも現役の高級料亭です。
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2.妙慶寺を参拝する。
妙慶寺坂の由来となった浄土宗寺院です。天狗の守るお寺といわれています。松平家菩提寺で、幕末の加賀藩家老、松平大弐のお墓や石碑があります。松平大弐さんは、蛤御門の変(禁門の変・平治の変)で、幕府派の薩摩藩会津藩新撰組等と尊攘派(反幕府派)の長州藩とが武力衝突した際に、14代藩主の前田慶寧公が京都御所警護の任務を放棄して近江海津の加賀藩領地に退去したために長州藩との内通の疑いを受けたことから、その責任を取る形で自害しました。禄高上、第一家老であった山崎庄兵衛は放免されたことから「第一に死ぬべき者が死なずして大弐が死んで何と庄兵衛」という落首が流行ったとか。(出典:「市民が見つける金沢再発見」より)
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3.寺町追分の道標を見つける。
「右つるぎ道、左のだ道」と書かれた道標です。蛤坂交差点は、野田山に向かう野田往還と鶴来へ向かう旧鶴来街道の分岐点で、寺町追分ともいわれます。野田往還は前田家墓所のある野田山への墓参のため整備された道です。鶴来街道は蛤坂町を起点としてしらやまさんのある鶴来町方面へと向かうご参詣道です。ちなみに「のだ」の文字は風化して読めません。
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4.お土産屋さんに立ち寄る。
忍者寺参道のお土産屋さんで、昭和のヤンキー御用達のファンシーninjaグッズに昭和を感じましょう。ていうか、今でも売ってるのでしょうか?木刀とかshinsen-gumi的なファンシーアイテムの数々。ちなみに忍者寺そのものは、蛤坂町ではなく泉寺町になります。
5.自転車で蛤坂をかけのぼる。
自転車で坂をかけのぼろう!犀川大橋の交番手前から、信号が変わったと同時に自転車で交差点をわたって蛤坂をかけのぼると、坂上の蛤坂交差点を信号ギリギリで渡れます。蛤坂町を一気にかけぬけ、山錦楼も妙慶寺も道標も全て無視の全速力。もちろん立ちこぎです。高校時代のわたしの楽しみ方、というか遅刻ぎりぎりのわたしの日課。。。
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6.肉眼で読める蛤坂町をさがす。
発見したらご一報ください。

金沢市指定保存建造物の山錦楼(1の写真)
浄土宗・安養山妙慶寺(2の写真)
寺町追分の道標(3の写真)
実に走りたくなる蛤坂(5の写真)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、市民が見つける金沢再発見、いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成28年1月31日]

三社宮ノ後

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】三社町
【感想・雑記】現在の三社町(さんじゃまち)には、かつて三社◯◯町を冠する町名がいくつもありました。この三社宮ノ後(さんじゃみやのうしろ)のほか、三社宮ノ前、三社弓ノ町、三社五十人町、三社川岸、三社山田町、三社垣根町などなど。いずれも昭和40年に消滅して、大部分が「三社町」になってしまいました。そしてこの三社町は、デンリョクの電柱番号札以外のものが見つからない旧町名の絶滅エリアとしても知られます。旧町名さがしをはじめた平成24年冬に「三社垣根町」の表札が残されているお家を発見したのですが写真を忘れ、夏に訪問したときにはすでに取り壊されてしまっていたという悲しい出来事もありました。そのため今回は、通常のスチールタイプと異なる昭和37年モノの手書き文字風「三社宮后線」によるご紹介です。ちなみにNTTの番号札は「三社宮前幹」なので、ここが三社宮ノ前なのか三社宮ノ後なのか議論のあるところですが、歴史あるデンリョク優先で掲載いたします。立地的にもたしか「宮の後」だった記憶があります。

社町の地名は、三社の宮といわれた豊田白山神社に由来するそうです。石川県神社庁のホームページによると、由来書や三社宮御縁起には、養老元年(717年)に白山を開山した泰澄上人が、その翌年の養老2年、石川郡戸板庄に白山三ヶ明神を勧請して三社権現といったのがはじまりとのことですが、実際には諸説あるようです。なお、豊田白山神社の「豊田=とよた」は戸板の当て字だそうです。また、すでにお分かりのとおり、三社宮ノ後は、三社の宮である豊田白山神社の宮の後ろにあった町なのでその名がついたものと思われます。

さて、全国二千社以上ある白山神社ですが、ご祭神は白山比竎大神で、菊理媛命(ククリヒメノミコト)と同じ神さまとされています。菊理媛命日本書紀に少しだけ登場する神さまで、イザナギイザナミの仲を取り持った縁結びの神さまだそうです。前回ご紹介した鶴来町新町には、創業約450年にもなる菊姫という日本酒の酒造会社がありますが、もちろんこの菊理媛命に由来します。

鶴来町には、新町の菊姫さんのほか、本町の小堀酒造さんもあります。「萬歳楽」という日本酒で有名ですよ。加賀の美味しいお米と、霊峰白山から流れる手取川のきれいや水から作られるお酒は、加賀の菊酒といわれており、白山市の5社の蔵元で作る「白山菊酒」というブランドもあります。なお加賀の菊酒についてのお話しは、わたしの駄文なんかではなく、菊姫ホームページより「加賀菊酒考」の小論をご覧になるとよいでしょう。

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釤三社の宮釤豊田白山神社(上)
鶴来新町の菊姫さん(中)
鶴来本町の小堀酒造さん(下)
[参考文献:石川県神社庁ホームページ、菊姫合資会社ホームページ、ウィキペディア
[発見日:平成25年5月19日]

【石川縣石川郡】鶴来町新町

f:id:cho0808:20170408140017j:plain:left:h300【消滅した年】平成17年(2005年)
【現在の町名】白山市鶴来新町
【感想・雑記】前回に続いて鶴来町です。鶴来町は、昭和29年(1954年)の昭和の大合併によって、もともとの鶴来町と一ノ宮村、蔵山村、林村、舘畑村とが合併して新たに鶴来町となりました。白山市になったあとも、鶴来駅周辺にあたる旧鶴来町の町名だけは、◯◯町→鶴来◯◯町と、鶴来を冠して名乗っていいことになってます。いわば猿楽町→神田猿楽町、坂町→四谷坂町みたいなもんす。だから今回の新町も旧町名といってよいよね☆

鶴来(つるぎ)という名前の由来は、旧鶴来町日詰町にある金劔宮(きんけんぐう)という神社にあります。古くは劔宮(つるぎのみや)とも呼ばれ、このあたりの集落も「劔(劍)」と呼ばれるようになりました。藩政期以降に「鶴来」の字が当てられるようになったそうです。
金劍宮の秋の大祭は、ほうらい祭りとして知られ、鶴来の旧町内を巨大なつくりもんが練り歩きます。また、初老(40歳)の厄年を迎えた衆が祭り唄を歌いながら神輿を担ぐのは、金石町の夏季大祭と同様の伝統神事のようです。

さて、本町や新町のほか、今町、古町、上東町、知守町、日詰町といった鶴来町の旧町名ですが、いかにも藩政期から続く町にありがちネームです。さぞかし歴史ある町名なのかと思いきや、意外なことに昭和29年(1954年)に誕生した新しい町なのだそうです。本町は別にしても、今町、新町、古町などのネーミングセンス、昭和にしては古すぎやろ!と思ってたのですが、すぐに理由が分かりました。実は、本町や新町などの町名は江戸時代の文献からも見られる通称町名だったのです。これは想像ですが、高岡市戸出町のように、鶴来村だった頃には、本町や新町や今町や古町といったご城下風の町立てが許されなかったのではないでしょうか?
ところでわたくし、とある発見をしました。詳しくは地図アプリをご覧ください。鶴来町付近の地図を見ると、町をまたいでイロハ小字が付けられているのがわかります。たとえば、鶴来本町二丁目ワと鶴来古町ワや、鶴来新町タと鶴来清沢町タと鶴来今町タは、それぞれ隣接しています。実は、地番もどうやら同じワやタの中では重複しないように付けられているようなのです。
つまり、どういうことかといいますと、鶴来町の旧市街地は、本町二丁目や新町といった町名がなくても、鶴来町ワ◯番地、鶴来町タ△番地だけで場所が特定できてしまうはず、ということなのです!
今回発見した旧町名の表札はいずれも旧字体の漢字を使ってることからも、ひょっとしたら、正式に町立てされる昭和29年以前のものかもしれません。もしくは昭和29年の正式な町立てを記念して作られたものかもしれません。どちらにしても、住所を特定するのに本来不必要なはずの「本町二丁目」や「新町」といった町名、藩政期から名乗りたくとも名乗れぬまま、脈々と守り続けてきた町名への愛と誇りを感じずにはいられません。たかが町名、されど町名。まさに、我々さがす会スピリッツを体現した歴史遺産といえなくもないのではないでしょうかといえるかもしれません!!

以上は、あくまでわたしの推論および実感に基づくものであり、実際の効果・効能を示すものではありませんのであしからず。

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金劍宮(上)
ほうらい祭りのつくりもん(中)
鶴来町新町界隈(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、『鶴来町史 歴史編 近世・近代』鶴来町史編纂室(1984年)、ウィキペディア
[発見日:平成29年4月8日]

【石川縣石川郡】鶴来町本町二丁目

f:id:cho0808:20140503175236j:plain:left:h300【消滅した年】平成17年(2005年)
【現在の町名】白山市鶴来本町二丁目
【感想・雑記】平成の大合併から早いもので10余年経ちました。旧町名をさがす会としては、市町村合併による消滅は本来捜索の対象外なのですが、「石川縣」と旧字体で書かれた歴史のありそうな旧町名を発見しておりましたので、いつもどおり例外的にご紹介したいと思います。

旧石川郡鶴来町は、金沢市の南のほうに位置する郊外の町で、金沢の市街地から15kmほど離れています。平成17年(2005年)、いわゆる平成の大合併により、松任市美川町のほか、白山麓の5ヶ村(河内村鳥越村吉野谷村尾口村白峰村)と合併して白山市となって消滅してしまいました。

白山市、ということで、白山の話題にも触れたいと思います。白山は、石川県(白山市)と岐阜県(白川村)にまたがる標高2,702mの山で、富士山や立山とともに日本三名山(三霊山)といわれる山でもあります。養老元年(717年)、泰澄上人による開山と伝えられておりますので、昨年の平成29年(2017年)がちょうど開山1300年にあたる年でした。絶好のタイミング逃しちゃってた!しまったよ!

さて、その白山ですが、古くから白山信仰のある霊峰として知られており、白山比竎(比め)神社は、全国に二千社以上あるといわれる白山神社の総本社です。鶴来町は、その白山比め神社の門前町(鳥居前町)として、古くから市場が開かれるなどして栄えてきたそうです。ちなみに白山比め神社は、加賀国の一之宮で、地元では「しらやまさん」の名で親しまれています。

ところで、しらやまさんは加賀国一之宮なのに、なぜか白山市三宮町にありますが、その白山市三宮町は、平成の大合併までは石川郡鶴来町三宮町でした。そして、昭和の大合併前の昭和29年(1954年)までは石川郡一ノ宮村(大字)三宮で、その3年前の昭和26年(1951年)までは石川郡河内村(大字)三宮で、さらにさかのぼること、明治の大合併前の明治22年(1889年)までは石川郡三宮村だったのです。つまり長い目で見ると、しらやまさんは鶴来町にあったといっていいのか、はたまた河内村なのか何なのか、非常に断定しづらいところもあるようなないような感じということなのです。まあ、鶴来町河内村も合併しちゃって今は同じ白山市なので、ちっちゃいことは気にしない!
なお、しらやまさんへは、つい最近まで、北陸鉄道石川線野町駅から加賀一の宮駅までのびていたのですが、平成21年(2009年)に廃駅となり、鶴来駅が終点となってしまいました。ただ、風格のある駅舎や線路跡がまだ残っておりますので、廃線マニアの方は是非お越しください。

ということで、今回、石川縣石川郡鶴来町本町二丁目の紹介を一切しないままお時間がきてしまいましたので、次回完結編、地図マニアの方必見の内容でお届けする予定です。

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加賀国一之宮のしらやまさん(白山比め神社)(上)
今も残る加賀一の宮駅舎(中)
北陸鉄道金名線廃線跡(下)
[参考文献:ほぼウィキペディア
[発見日:平成26年5月3日]

金石相生町

f:id:cho0808:20120805145139j:plain:left:h300【ほぼ消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活するかもしれない年】ナントカ2年(2020年)頃?
【現在の町名】金石北一丁目、金石北二丁目、金石北三丁目、金石北四丁目、金石相生町
【感想・雑記】金石相生町(かないわあいおいちょう)は、金石町の郊外にあたるわりと広範囲な町域です。現在の金石北一〜四丁目の各一部で、最後にのせた地図の大部分が、かつての金石相生町になります。なお、地図の右上に「金石相生町」の文字が見えますが、実は道路と雑木林と砂浜だけからなる一区画にわずかに残っているようです。

相生町という地名は全国にありますが、明治時代に急増した瑞祥地名のひとつです。瑞祥地名とは、縁起のいい名前をつけた地名のことで、似たような意味の地名として、高砂町、千歳町、老松町、弥生町などがあります。「相生い」「相老い」などにも通じ、合併を祝って付けることも多いそうです。金石相生町も、慶応2年(1866年)に宮腰町と大野町が合併したときにできたお祝いの地名のようです。(宮腰と大野との合併の話についてはこちらの日記も参考のこと)

さて、金石相生町(石川郡金石町字相生町)といえば、戦前の一時期、現在の金石町小学校の建つ場所に「涛々園」という遊園地がありました。大正14年(1925年)に金石電気鉄道が開園・運営したテーマパークで、演劇場、動物園、相撲場、大浴場などがあり大変賑わっていたそうですが、戦時中の昭和18年(1943年)に閉園してしまいました。また、ほぼ同時期に浅野川電気鉄道社長の平澤嘉太郎さんが、近くの粟ケ崎(というか内灘?)に粟ケ崎遊園を開園しますが、こちらも昭和16年(1941年)に軍に接収されて閉園しています。涛々園も粟ケ崎遊園もどちらも、阪急・小林一三・宝塚遊園地のミニチュア版といった感じだったのでしょうか。
なお、現在は卯辰山で開催される相撲の甲子園、高校相撲金沢大会は、当初金石海岸の日和山で開催されていましたが、大正15年(1926年)から涛々園が大会会場となり、涛々園が閉園してからも昭和26年(1951年)まで開催が続いたということです。
そして翌年の昭和27年(1952年)には、金石御塩蔵町校舎から金石町小学校が移転してきて現在に至ります。当時の名残なのか、わたしが通ってたころの校庭には相撲場がありましたが、今もあるんでしたっけ?

本日最後は、金石相生町で発見したデンリョク電柱番号札に書かれていた「涛々円」をご紹介して締めくくります。「涛々園」ではなく「涛々円」!いやーデンリョク電柱番号札は奥深いわー。

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金石相生町あたりの地図(mapion)(上)
「涛々円」のデンリョク電柱番号札(下)
[参考文献:ほぼウィキペディア、いいね金沢(金沢市ホームページ)など]
[発見日:平成24年8月5日]

金石味噌屋町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活するかもしれない年】平成30年(2018年)?
【現在の町名】金石西二丁目、金石西四丁目
【感想・雑記】前回に続き金石シリーズ、塩の次は味噌です。石川県、いや北陸のソウルフード8番ラーメンはわたくし断然味噌派です。鍋にはもちろんマツヤのとり野菜味噌です。サッポロ一番もみそ派です。でも本当は石川県民なので、イトメンのチャンポンめん派です。それにしても、兵庫県の龍野発祥のイトメンがなぜ石川県民に愛されているのかしら。
ところで、今回ご紹介する金石味噌屋町の写真、どう見ても最近できた「金石西みそやちょう広場」なので、本来ならもちろんアウトなのですが、今回は、そんなこまかいことはどうでもいいくらい大きな驚きニュースのお話しです。

昨年6月に新聞報道があり、なんと金石地区の旧28町名が数年以内の復活を目指すことになったということです。平成11年(1999年)に主計町が全国で初めて復活したのを皮切りに、全部で11町名が復活した金沢市ですが、平成21年(2009年)に上堤町が復活して以来、約9年間、復活運動が停滞していました。それが、一挙に28町も復活を目指すことになったのです!しかもわがふるさとの金石町で、なのです!!!

おさらいまでにお話ししますと、金沢市の金石地区は、市街地から約6kmほど離れた港町で、昭和18年(1943年)に金沢市と合併するまでは石川郡金石町だったところです。すでにご紹介した金石御塩蔵町、金石冬瓜町、金石湊町、金石下越前町(金石上越前町もあるよ)、金石松原町などの金石◯◯町が30ほどあったのですが、昭和43年(1968年)に例の住居表示により、金石本町のほかは、大半が金石西、金石東、金石北という味気ない住所になってしまいました。
まずは、この金石味噌屋町のほか、金石本町(元の区域に拡大)、金石通町、金石下本町の4町が先陣切って本年(2018年)復活するかも、とのことですが、うち1町は住民の反対により同意が見送られた、というニュースも報道されていました。

最後に、金石味噌屋町の思い出といえば、昔はおまつりの露店が味噌屋町の通りにずらっと並んで、人がごった返してて、日和山の仮御殿まで列が全然進まなかったものですが、去年の夏の大祭、味噌屋町の露店は1軒のみでした。。。なんとも寂しい限りですね。

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夏の金石味噌屋町(上)
夏の日和山の仮御殿(下)
[発見日:平成29年8月4日]