金石御塩蔵町

f:id:cho0808:20120811132204j:plain:left:h300【消滅した年】昭和43年(1968年)
【現在の町名】金石西四丁目
【感想・雑記】流れゆく季節の真っただ中あたりの今日この頃です。今日は3月9日、この日記の連載開始よりちょうど6周年を迎えました。約1年の休載を経ておりますが、旧町名ハンター・ハンターは細々と続いていく所存です。それにしても、前回の日記の話題は、稀勢の里優勝のお話しですよ。ふと、日の早さを感じますね。

で、久々の今回ご紹介するのはわが地元、金石シリーズです。金沢市としての旧町名は金石御塩蔵町(かないわおしおぐらまち)ですが、金石◯◯町の冠称がついてない「御塩蔵町」なので、ひょっとすると、この発見された旧町名の遺構は、昭和18年(1943年)以前の、石川郡金石町時代の御塩蔵町のものかもしれません。

さて、金石御塩蔵町は、名前のとおり加賀藩の塩蔵があったところのようです。金沢の市街地には味噌蔵町がありましたが、こちらは塩蔵です。海辺の街ゆえ、海水からとれる塩の蔵なのでしょうか。ただし、この藩の塩蔵も、明治に入るとすでになくなっていたようです。金石御塩蔵町は、わたしの親よりも上の世代にとっては、小学校のあった場所として知られております。金石町小学校の沿革によれば、明治3年(1872年)に金石集学所として開設し、一時期は金石御塩蔵小学校とよばれた時期もあったようです。昭和27年(1952年)に小学校は現在地に移転して、御塩蔵町の小学校跡地は「にぎわい広場」とよばれています。毎年7月には夏まつりなんかも開催されてにぎわいをみせていますが、ふだんは少しさびしげなただの広場です。

ところで、わがふるさと金石といえば、昨年の2017年6月に驚くべきニュースが発表され、われわれの業界を震撼させましたが、これはまた次回の話題といたしましょう。それではまた。

f:id:cho0808:20170805165506j:plain:w210 
f:id:cho0808:20170804173859j:plain:w210 
金石町小学校の御塩蔵町校舎(上)
御塩蔵町のにぎわい広場(下)
[参考文献:金沢市立金石町小学校ホームページ]
[発見日:平成24年8月11日]

谷町

f:id:cho0808:20170326232541j:plain:h300:left【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】長土塀二丁目
【感想・雑記】タニマチとは、角力角界用語でごひいき筋、後援者のことをいいます。のちに歌舞伎などの芸能の世界やその他スポーツの分野でも使われるようになりました。語源は諸説あるそうですが、大阪の谷町七丁目で開業していた医者が大の相撲好きで、力士をタダで診療してたから、という説が有力とのこと。かつて、大阪春場所になると谷町七丁目界隈に各部屋が宿舎をかまえていたそうです。

大阪・谷町の由来については、かの織田信長公が「日本一の境地(場所)なり」と称したという上町台地の谷にあたることから名付けられたということです。あ、これは一部ブラタモリ情報ね。ちなみに信長公のいた当時、上町台地の高低差のてっぺんには一向一揆の一大拠点であった石山本願寺が要塞のごとくそびえ立ち、陥落後はそこに秀吉公が大阪城を築いたという難攻不落の要所であったことを付け加えておきます。

さて、ようやく本題の金沢・谷町ですが、場所は元車交差点そばで、中央市民体育館(旧長土塀小学校)の昭和大通りをはさんだ向かい側あたりの一画です。こちらの由来は、加賀藩士神谷氏の邸宅があったことに由来するそうです。文政6年(1823年)の町立てで、神谷町を略して「谷町」といわれるようになったそうですので、大阪のタニマチとは何も関係ないようでした。

ところで本日の大阪春場所千秋楽は久々に大興奮しました!!新横綱稀勢の里、あのケガをおして出場し、なんと優勝しました。君が代歌いながら涙ぐむ横綱を見て思わずもらい泣きしてしまったよ。谷町のタニマチのお医者さんではないですが、きちっと治療に専念して夏場所は万全のコンディションで臨んでもらいたいものですね。

f:id:cho0808:20130318175500j:plain:w210 
4年前見にいった大相撲大阪春場所
[参考文献:ウィキペディア(タニマチ)コトバンク(タニマチ)、、ブラタモリ(NHK平成28年11月5日放送)、いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成24年10月27日]

芦中町

f:id:cho0808:20120219170930j:plain:h400:left【消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】弥生一丁目、泉一丁目、泉二丁目
【感想・雑記】金沢で旧町名探しをはじめてわりと初期に見つけた蔵出しの芦中町です。そろそろ蔵から出してかんといかん、と思いつつも我が家にパソコンがないのでたまった写真がアップできないんですぅ。

芦中町は江戸時代からの町名で、 金沢市のホームページによれば、「足中町といふは並び短く尻切れたる町なり」と伝えられ、はじめは「足中町」とも書く。だそうです。今は、金沢芦中郵便局にかろうじてその名をとどめておりますが、現在の町名は弥生や泉となって消滅しました。大正13年(1924年)に誕生した新しめの「弥生」という町名が生き残って、江戸から続く「芦中」が消滅したのは、おそらく金沢市立弥生小学校があったからでしょう。「小学校の名前になった町名は比較的残る」という法則が適用されたものと推察されるわけです。しかしながら、今から3年前の平成26年(2014年)には、その弥生小学校もなくなり、野町小学校と統合して泉小学校になってしまいました。

泉小は、現在は野町小校舎を仮住まいとしておりますが、耐震対策を施した新校舎建設がすすんでいるわけなのです。その学校の用地として、金沢大学から金沢市に土地が売却されることになり、金沢大の北溟寮がこの3月末をもって閉鎖されることになりました。おそらく小学校の用地確保にあたっては、誰かが何かに働きかけたとか、契約書が何枚もあるとか、そのようなことはなく、まったくもって適正に行われたものと考えておるわけです。

ところで、このたび閉鎖される金沢大学の北溟寮については、テレビ番組「探偵ナイトスクープ」や、「月曜から夜ふかし」などでとりあげられてすっかり有名になった伝統競技「北溟サーキット」でおなじみなのです。ご存じないかたはネットで調べてみてください。寮にあるU字型のお風呂のへりにまたがって全裸の学生たちが競う伝統競技なのですが、伝統もついに終わりのときをむかえるのです。

春は別れの季節、こうしてひとつの歴史が終わりを迎えるとともに、あらたな歴史が生まれていくものなのでせう。
この連載もこの3月、6年目に突入しました。わりと休みまくりの展開も、蔵出し公開とペースアップでそろそろ終焉の時もみえてくるのでしょうか。。。

f:id:cho0808:20160507175122j:plain:w210 
f:id:cho0808:20160507174357j:plain:w210 
f:id:cho0808:20160507165821j:plain:w210 
金沢芦中郵便局(上)
閉鎖される金沢大学北溟寮(中)
北陸中日新聞」北溟サーキットの記事(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成24年2月19日]

森町三番丁

f:id:cho0808:20170226123825j:plain:w300 
【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】扇町
【感想・雑記】2017年1発目の投稿です。枝町→木町→森町までいっきにご紹介するつもりが、木が森になるのにほぼ半年かかってしまいました。まあこれも、パソコンが実家に置きっぱなしというのが大きな理由です。決してさぼりまくってたわけではございません。

さてさて、今回ご紹介する森町(もりまち)ですが、一番丁から三番丁までありました。昭和41年の住居表示によって、全て扇町の一部となりました。扇町やお隣りの暁町は、ざっとあげただけでも、森町のほか、御小人町、裏御小人町、九枚町、火除町、銀杏町、柿木町、吹屋町、馬場崎町、田町など、いくつもの町が消滅して誕生した町なので、旧町名の遺産もかんたんに見つかるだろうとタカをくくっていたのですが、びっくりするくらい見つかりません。電柱番号札すらも見つからないんですよ!今回、なんとか昭和40年製の「森町三」の電柱番号札が見つかったので、かろうじてみなさまに報告することができております。

森町三番丁は、ちょうど賢坂辻の付近、兼六園下の交差点から金沢大や山側環状方面にのびた「兼六大通り」と並行するせまい通りに沿って町立てされています。このせまい道を旧材木町側から突き進むと、突きあたりに、突如として大きなお寺が見えてくるではありませんか。このお寺は広済寺というお寺で、山号を武佐山といいます。
武佐の広済寺といえば、滋賀県近江八幡市武佐町にある太子山広済寺がご本家(ご本山?)になります。JR琵琶湖線近江八幡駅から近江鉄道に乗り換えて一駅の武佐駅が最寄り駅です。こちらの広済寺さんは、太子山というだけあって聖徳太子の勅命で建てられたとされる歴史の古いお寺で、お寺の名前は、経文にある「広く衆の危難を済く(たすく)」からとられたものだそうです。
近江八幡の広済寺さんは、嘉禎元年(1235年)に浄土真宗に改宗しました。100年続いた加賀の一向一揆のとき、現在の金沢城のあたりにあった尾山御坊(加賀一向宗大本山)の看房職という役目に就くため、近江八幡の広済寺10代目祐念さんの次男、祐乗さんが金沢に派遣されたのが、金沢の広済寺のはじまりだそうです。当時、広済寺は尾山御坊のそばにあったようですが、尾山御坊陥落などいくつかの危機を乗り越えて、江戸時代には現在の場所に移転してきたとのこと。

ここで急に話しは変わりますが、尾山御坊の時代、金沢で最初の町が誕生しました。その町が尾山八町とよばれており、西町、南町、堤町、後町、近江町の5町がなかでも最も古い町とされています。と、ここで、勘のよいみなさまもうお気づきですね。最古の町のなかに「近江町」が含まれていることに。
近江町の由来は諸説あるようですが、広済寺さんとともに近江商人が移り住んできたのがはじまりとする説があるようです。さらにさらに、現在、近江町市場のある「武蔵ヶ辻」という地名の起こりとして、近江の広済寺から祐乗さんが移ってきたのが現在の武蔵ヶ辻ということで「武佐の辻」といったのが由来だとする説もあるとのこと。

以上、金沢の中心地、武蔵ヶ辻やら近江町の由来ともいわれる由緒正しきお寺、武佐の広済寺さんのある森町三番丁のご紹介でした、と終わりたいところでしたが、『角川日本地名大辞典』によれば、武佐の広済寺さんがあるのはお隣りの旧御小人町とのこと。がーん。。。

f:id:cho0808:20170226123835j:plain:w210 
f:id:cho0808:20170226124604j:plain:w210 
f:id:cho0808:20170318162426j:plain:w210 
旧材木町側から見た森町三番丁の通り(上)
武佐山広済寺(中)
武蔵ヶ辻バス停前から見た近江町市場(エムザ口)(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、市民が見つける金沢再発見(ホームページ)、石川滋賀県人会(ホームページ)]
[発見日:平成29年2月26日]

木町二番丁

f:id:cho0808:20120818155008j:plain:h300:left【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】東山一丁目、東山二丁目
【感想・雑記】前回が枝町だったので、今回は木町です。町を除くと木です。ただし◯番丁がつくのでシンプルさでは枝町にやや劣ります。材木町となると、金沢ほか全国的にも見られる町名ですが、木町はほかにもあるのかな。そういえば、仙台には「木町通」が現存しますね。

木町の由来は、藩政期に材木問屋があったことからつけられた町名だそうです。一番丁から四番丁までありました。場所は金沢の一大観光地であるひがし茶屋街に隣接しています。ひがし茶屋街の愛宕が縦の筋なら木町は横の筋という関係です。ただし、ひがし茶屋街に隣接するにも関わらず、木町の筋に来るといっきに観光客がへってしまうというありさま。ひがし茶屋街と同じく重要伝統的建造物群保存地区なのにね。町家レトロなだけでは観光客の心はつかめないのでしょうか。
なお、木町二番丁には、東京じゃ見られないような質の高い木製の旧町名の遺構とともに高木糀商店さんという藩政期から続く有名なお味噌屋さんがありますので、ぜひとも観光の際にはお立ち寄りのほどを。

f:id:cho0808:20161103165558j:plain:w210 
f:id:cho0808:20161103170725j:plain:w210 
木町二番丁(観光客いない)(上)
愛宕二番丁(観光客だらけ)(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市公式ホームページ)]
[発見日:平成24年8月18日]

枝町

f:id:cho0808:20120520171713j:plain:h300 
【ほぼ消滅した年】昭和39年(1964年)
【ほぼ現在の町名】幸町
【感想・雑記】枝町(えだまち)。いいですね。どこか清々しさがあります。町を除けば枝ですもん。いっさいの飾り気なし。わたしの好きな町名のひとつです。江戸期から続く町名ですが、残念ながら由来は分かりませんでした。それにしても、みなとみらい(横浜市)とか、ゆめみ野(取手市)とか、奏の杜(習志野市)とか、あすと長町(仙台市)とか、ハイランド(横須賀市)とか、インターパーク(宇都宮市)とか、新三郷ららシティ(三郷市)とか、こあら(酒田市)とか、次々にすてきな町名を考え出す現代人にとって、枝町などという町名はちょっとやそっとじゃ考えつかないことでしょう。

…と、そんな枝町、実は完全には消滅してないのです。なんと、現在、1軒のお宅だけが大事に大事にこの枝町を守っていらっしゃいます。住民数ゼロの川岸町同様、桜橋へと続く「本多通り」を隔てた北西側の区域(名付けて金沢の牛込エリア)に、約1軒分のスペースだけが掛かっていたため、消滅を免れました。よかった!なお、残りの南東側に位置した大半の町域は、全て幸町となってしまいました。なお今回の旧町名も南東部の幸町エリアで発見したものです。
あとは今後、残る枝町の存続とともに、幸町が「はっぴぃらんど」に改名されないことを祈りたいと思います。

f:id:cho0808:20161101002843j:plain:w210 
枝町付近の地図
[発見日:平成24年5月20日

川上新町二丁目

f:id:cho0808:20120520145016j:plain:h200 
【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】菊川二丁目
【感想・雑記】おしゃれレトロで有名な新竪町商店街を抜けて、ひたすら犀川を川上に向かって突き進むと、菊川町小学校が見えるあたりで出会う町が今回ご紹介する川上新町です。二丁目付近には、老舗の平木屋さんという旗屋さんがあります。片町(旧上伝馬町)にも同じ平木屋さんという染物屋さんがありますが、何か関係あるのでしょうか。
川上新町の町名は、藩政期にかつて犀川の河原だった場所を埋め立てて新しく町立てしたことから付けられました。一丁目から三丁目までありましたが、昭和39年、全国に先がけて実施された住居表示によって消滅してしまいました。

さて、川上新町二丁目付近で狭い路地が出会う六叉路の交差点が川上広見です。金沢のヒロミといえば、ミスターちんさんもデビット伊東さんも関係なく、六斗、横山そしてこの川上あたりが有名でしょうか。このうち、川上広見は交差点の名前として残っているほか、金沢周遊バス・菊川ルートのバス停の名前にも残っております。
ところで「広見」というのは何でしょう。すでにご紹介した気がしますがおさらいがてらご説明します。「広見」とは、せまい路地を抜けたところに広がる一種の広場で、藩政期から残っていて金沢に特有のものらしいです。火事の延焼を防ぐ火除け地のほか、軍事的に伏兵を配置した場所、荷車の回転場所、そのほか高札を掲げたり、辻説法の場などに使われたとされます。現代の金沢では、広見などのコミュニティ空間を保存、活用するための条例までもが制定されているくらいなのです。

ふと、川上広見(かわかみひろみ)ってどこかにいそうな名前っぽいなあと思ってたら、芥川賞作家の川上弘美さんという方がいらっしゃいました。しかも今年(2016年)、小説『大きな鳥にさらわれないよう』で金沢市主催の泉鏡花文学賞を受賞されたそうです。おめでとうございます!泉鏡花文学賞の対象は、鏡花の作風にちなんで「ロマンの薫り高い作品」だそうです。今宵、秋の夜長、ロマンチックに、、、。ではまた。

f:id:cho0808:20161030152436j:plain:w210 
f:id:cho0808:20161029101256j:plain:w210 
川上広見交差点(上)
平木屋旗店(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市HP)ほか]
[発見日:平成24年5月20日