岩根町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目
【感想・雑記】この週末、金沢では百万石まつりが開催されました。今年の百万石パレードはお天気にも恵まれてたいへんなにぎわいでした。羽田美智子さんのお松の方も、高橋克典さんの利家公も、ミーハーながら、きれいだなあカッコイイなあと思いながら拝見した次第でございます。
ところでわたくし、先週の金曜(6/1)は早く帰ることができたので、加賀友禅灯籠流しも見物することができました!加賀友禅灯籠流しは、友禅流しで有名な浅野川に灯籠を浮かべて、友禅職人の供養と友禅の発展を願う行事だそうです。今年は、半数もの灯籠が燃えてしまうという事件が発生したのでご存知のかたも多いかもしれません。
そういうわけで、いつもの無理やりなこじつけに従いまして、本日は、金沢を代表する川、浅野川沿いの町ということで岩根町(いわねまち)をとりあげたいと思っております。

岩根町は、灯籠流しの会場から少し離れていますが、彦三大橋と昌永橋・中島大橋との間にあった川沿いの町です。昭和40年の住居表示実施により、瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目の一部となりました。町名の由来は、江戸初期、越前の牢人(浪人)で馬術の名人であった岩根十蔵がこの地に馬場を開いたことによるもので、岩根馬場と呼ばれました。そののち馬場は、川の対岸、現在の馬場小学校近くにあった関助馬場に移りますが、岩根馬場の跡地が町地となり、江戸中期ごろには、岩根町といわれるようになったとのことです。江戸時代の岩根町は、もともと川岸の10数軒だけの小さな町でしたが、明治5年(1872年)に、おとなりの勘解由町(かげゆまち)や亀淵町(がめぶちまち)などと合併して、戸数60軒ほどの大きな(新)岩根町になりました。なお、当時の町の規模としては勘解由町のほうが大きかったそうなので、ひょっとしたら、今回ご紹介する町が勘解由町になってたかもしれません。これを見つけたのも元は勘解由町だった場所ですし。これもまた運命のいたずら、ですよね。そして、いつの時代も、町は生まれそして消えてゆくものなのでしょう。それにしても、元々の岩根町と勘解由町とで、町の雰囲気、というか気どっていえば表情?みたいなのが全然違うから面白いですよねー。これぞ、さがす会活動の醍醐味であります。

なお、勘解由町の由来は、加賀藩士であった森川勘解由のお屋敷があったことによるものだそうで、勘解由殿町(かげどんまち)などとよばれたとのことでした。詳しくは、「市民が見つける金沢再発見の会」武野さんのすばらしいブログをご覧ください。とても勉強になる記事が盛りだくさんですよ!

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浅野川加賀友禅灯籠流し(上)
江戸時代からの岩根町(…で今は瓢箪町)(中)
江戸時代は勘解由町だった岩根町(…で今は瓢箪町)(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成24年7月23日]

西堀川町

f:id:cho0808:20120303144838j:plain:left:h350【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】堀川町
【感想・雑記】此花校下の旧町名は、なんと平成25年(2013年)1月25日以来、5年半ぶりということです。そんな此花人待望の旧町名のわりには、現在の町名である「堀川町」に方角がくっついただけの、一見行政的無機質な印象もイナメナイ「西堀川町」のご紹介となります。しかも、スマホの地図アプリによれば、西堀川町は、鉄道の高架下に成仏しきれずに幽霊のごとく存在しているようなのです。

実は、金沢駅の高架下にはなぜか幽霊町名たちがたくさん眠っているのです。ウソだとお思いなら地図アプリで金沢駅周辺を確認してごらんなさい。ほうら、西堀川町のほかにも、日吉町、広岡町、折違町、柳町、梅沢町などなど、消滅したはずの町名がいくつも見つかるではありませんか。もちろん、いずれも住民はゼロです。それにしても、これらの幽霊町名たち、なぜ線路下にこんなにも残っているのでしょう。住居表示の際になにか手ちがいがあったりしたのでしょうか?オバケ嫌いのわたしとしては、生き返らせてあげるか、それが叶わぬならば、ひと思いに成仏させてあげたいと願わずにはいられません。
なお、かつての西堀川町は通りを中心に、背割り(町の境界が家の背中)になった典型的な両側町でしたが、いまは堀川町の一角となりました。ただ、その延長線上に1本だけ「西堀川」と書かれた電柱が、これまたなぜか残されておりましたとさ。

…と、ここまで書いたあと、念のため、図書館で最新の住宅地図を確認したところ、高架下に眠っているのは、「西堀川町」ではなく「淵上町」との記載が見つかりました。はたして何が正解なのでしょうか。まあ現れたり消えたり、そのへんも幽霊らしくていいんじゃないでしょうか。ま、そゆことで一応、西堀川町は、旧町名ってことでいいんですかね?いいですよね?そのへんで手を打ちましょう。ちなみに図書館の帰り道、久々に西堀川町を再訪したところ、この西堀川町の表札は残念ながら消滅しておりました。。。なむー。

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鉄道高架下の西堀川町(本当は淵上町?)(上)
西堀川町の通り(中)
電柱の「西堀川」の文字と奥に見える高架橋(下)
[参考文献:『金沢市住宅明細図 地籍版中央部 平成30年版中』刊広社(2018)]
[発見日:平成24年3月3日]

中牧町

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】森山一丁目、森山二丁目
【感想・雑記】中牧町は、森山校下の旧町名です。「なかまきまち」でなく「なかまきちょう」らしいです。そしてお察しのとおり、上牧町と下牧町も存在します。現在の森山一丁目と二丁目を隔てる森山のメインストリート、森山町小学校に続く通りにありました。テレ金ちゃん、誉のドコ行く情報によれば、この通り、かつては中牧町商店街と言われたそうですが、いまは森山中央商店街と名前を変えています。ちなみに商店街には、以前にご紹介したかき氷「タイとと」が食べられる松永松味堂さんがありますが、ちょうど森山町二番丁との境界付近あたりです。はたしてどちらの町なのでしょうか。

森山一丁目のあたりは、かつて「大衆免(だいじゅめ)」とよばれた地区です。中牧町も、一時期、大衆免中牧町だったらしいですが、一時期とはいつ頃でしょうか、よく分かりませんでした。また、中牧町の由来を調べようと金沢市のホームページを見ましたが、「大衆免」の由来しか書いてありませんでした。金沢市職員の方、われわれが知りたいのは「中牧町」の由来のほうですよ。なお「大衆免」の由来につきましては、かつてご紹介した大衆免中通をご覧ください。

さて、今回ご紹介の中牧町ですが、なんと102soさんのご本家、旧町名をさがす会にてご紹介済みだったのです!観光地じゃないこの中牧町を見つけるなんてすごいです!てか、さがそうとすること自体がすごい!これが102soさんの"嗅覚"なのでしょうか?ちなみに今回、写真が横向きなのは実物がほんとに横向きだからです。102soさんは縦に補正してくれてありますが、わたくしは実物どおり横向きで掲載します。実は、以前に別バージョンの中牧町も発見してたのですが、写真におさめる前になくなってしまいました。

最後に、中牧町内にある浄光寺さんについてお話しします。浄光寺さんは、浄土真宗のお寺で、元和4年(1618年)に創建され、延享3年(1746年)に現在地に移ったそうです。以前、青島広志さんのコンサートや「おてらくご」でおじゃまさせていただきました。ほかにも「オテラート(お寺+アート)」などのさまざまな活動に積極的に取り組んでおられるお寺です。ちなみに、おてらくごは、お寺で法話をききながら、落語がタダで見られるというとてもよいイベントです。5月の金沢の定番イベントになりつつあるような気がします。今年も盛況のうちに終わったみたいですね。今年は残念ながらチャンスを逃して行けませんでした。。。

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森山中央商店街(かつての中牧町商店街)(上)
建替中の森山町小学校(森山町二番丁付近)(中)
真宗大谷派・龍向山浄光寺(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)、テレビ金沢ホームページ、『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)]
[発見日:平成24年3月3日]

大工町

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】片町一丁目、大工町
【感想・雑記】姉さん、事件です!消滅しているわけではないのに、「旧大工町」と書かれた歴史のまちしるべ標柱が見つかりました!「歴史のまちしるべ標柱」とは、昭和38年(1963年)以降の住居表示により大量に消えてしまった金沢の旧町名を後世に継承するため、昭和54年度より金沢市により設置された、いわば旧町名のお墓です。
ということはつまり、まだご存命の町にお墓が作られ、金沢市ホームページの旧町名一覧にも、「旧大工町」と書かれて、すでに亡き者が如く扱われているということです!例えるならば、引退していない現役スポーツ選手に向かって、あの人は選手なのですか?と言い放ってしまうようなものなのです!!…と、強く憤りを見せているかの如くですが、金沢市に旧町名とのお墨付きをいただいているおかげで、この日記でも後ろめたさを感じることなく、堂々と大工町をご紹介できているわけですので、なんとなく感謝もしているわけです。少々取り乱してしまい、申し訳ございません!

大工町(だいくまち)は、金沢の繁華街、片町の裏通りに現存する町名です。とはいえ、もとは通りをはさんだ両側とも同じ町の典型的な両側町でしたが、昭和41年(1966年)、住居表示実施により、通りの片側が片町一丁目となってしまい、もう片側だけがかろうじて大工町として残ることになりました。なお、残った片側の一帯は「金沢の牛込地区」と勝手によんでいる、旧市街で数少ない住居表示未実施地区にあたります。町名の由来は、藩の大工衆が住んだことによるもので、城下町にはわりとありがちな町名かと思われます。

さて、町の半分が消滅した大工町ですが、今回ご紹介する写真は、片町一丁目になってしまった側で発見したものです。だから堂々と旧町名と言ってしまってもいいのです。
ところで、このうぐいすもちみたいな町名表示板、実は過去にも宝船路町上伝馬町で見つけたものと同じです。なぜかいずれも長町校下でのみ見つかるこの町名表示板、一体なにもの?「青産研」という謎の組織?はなんなんでしょう?そのうち調査してみたいと思います。以上、あくまで旧町名の大工町からお伝えしました。

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「旧大工町」のまちしるべ標柱(上)
大工町と片町に分断された旧大工町の筋(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ]
[発見日:平成24年夏ごろ?(写真は平成28年1月31日)]

木曽町

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】東兼六町、扇町
【感想・雑記】木曽路はすべて山の中である。ごぞんじ、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭ですが、今回ご紹介する木曽町(きそまち)の由来は、まさにこの木曽路にあります。現在は、大半が東兼六町の一部であることからということからもご想像のつくとおり、金沢の一大観光地、兼六園の東側、最短だと徒歩10分ほどのところに位置する町ですが、景色はさながら、山の中です。
旧木曽町は、材木町から小立野台地をのぼる坂の途上に位置しておりますが、町を流れる源太郎川の渓流や趣きが、信州の木曽路に似ていることから、この坂を木曽坂と呼ぶようになり、明治5年(1872年)には、町名も木曽町になったのだそうです。

ちなみに、木曽坂をのぼりきったところにある町が、「白い巨塔」とともにご紹介した百々女木町です。ちょうど上百々女木町下百々女木町の町境あたりに出ますよ。なお、渋谷から電車で約20分、東京23区唯一の渓谷といわれる等々力渓谷と同じく、川がどうどうと流れる轟音が「とどろき」や「どどめき」の由来だそうです。「轟」は「とどろき」とも「どめき」(えちぜん鉄道勝山永平寺線の駅名にあります)とも読みますね。

と、ここまでしれーっと掲載写真のことに触れずにきましたが、どう見ても失われた当時の町名のものではございませんので、明らかにずるをしているのは明白です。申し訳ありません。掲載した案内図をもとに木曽町をくまなく歩き回りましたが、残念ながら、失われる以前のものを発見するには至りませんでしたので、以前から発見してたこれを掲載する決意をいたしました。
それにしてもこの案内図、「東兼六町(旧木曽町) 町会案内図」とありますが、現在の東兼六町は旧木曽町だけではありません。木曽町のほかにも、成瀬町、飛梅町、ハ坂、小尻谷町、下百々女木町、小将町三番丁、材木町一丁目、二丁目の旧町名からなる町であり、そもそも東兼六町町会という町会はありません。また反対に、旧木曽町も、一部は扇町になっているので「東兼六町(旧木曽町)」という書き方は、必要条件も十分条件も満たさぬ不正確な記述であることになります。
しかしながら、木曽町のあまりの見つからなさ、そしてこの案内図から、東兼六町(旧木曽町)がこのように語りかけてきているような気がします。

やれやれ。きみは僕の昔の名前なんて興味はないかもしれない。でも僕は「木曽町」に愛着はあるし、今の僕を形作る何かでもある。ただ、ひとつだけ言いたい。信州や美濃からの借り物である「木曽」という名前にほんの少し、後ろめたい思いも感じてきたのも事実なんだ。だから今は金沢らしい「兼六」の仲間に入ってしあわせな気分だし、僕自身が東兼六町だとすら思ってる。それは、かつて僕の一部分だった扇町奴らも認めてくれるはずだ、とね。

・・・本当に町の声が聞こえるようになったら病気です。あくまでふぃくしょんですのでそこのところひとつよろしく。

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木曽坂の電池番号札(上)
木曽路に似てるのか?木曽坂の木曽町界隈(中)
源太郎川の渓流と轟音(下)
[参考文献:高室信一『復刻新版 金沢・町物語』能登印刷出版部(2013年)]
[発見日:平成30年3月18日]

【京都市上京區】南禅寺福地町

f:id:cho0808:20180430103500j:plain:h350:left【消滅した年】昭和4年(1929年)
【現在の町名】京都市左京区南禅寺福地町
【感想・雑記】黄金週間は京都旅行に行ってきました!の番外編です。観光で訪れた南禅寺で発見した仁丹の町名表示板です。まあ知ってる人は知っている有名な仁丹かもしれません。南禅寺は、臨済宗南禅寺派大本山で、石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」で知られる大きな三門(山門)と、境内にある琵琶湖疏水水路閣が有名な観光地だそうですが、このたびはじめて訪れました。なお、南禅寺福地町は現役町名なので、旧町名というには非常に心苦しいところですが、昭和4年上京区から左京区が分区する以前の上京区時代のものなので、ギリギリ旧町名として認定していただきたいものです。

さて、本日5月10日は街区表示板の日だそうです。昭和37年(1962年)の本日5月10日に「住居表示に関する法律」が公布・施行されたことを記念して制定された記念日だそうです。でも仁丹は街区表示板ではないよ。なお、仁丹とはなんぞやという問いについては京都仁丹樂會さんのサイトなどを検索してみてください。かなり詳しい情報が得られますよ。

住居表示については、この日記でも何度もお話ししていますが、日本全国の幾千もの町名が消滅する原因(旧町名が誕生する原因?)となった制度といわれています。道路や河川等で町を区切るという街区方式が、古くは太閤町割りにも由来するという背割りの町々を壊し、住居表示の実施基準が、藩政期から続いてきた数ヘクタールにも満たないような小さくとも個性的な名前の町々を消し去るのに十分な破壊力を発揮したわけです。
しかしながら、京都の人々はその恐ろしい破壊力に気がついていたのか、住居表示制度の適用を拒絶することに成功したようなのです。そのため、京都の町には数多くの個性的な町が残り、また仁丹の町名表示板も残ることになったと考えられるわけなのです。京都の地図をながめてるだけで白めし3杯は軽くいけます(おおげさ)。天使突抜四丁目とか、元悪王子町とか、なんともステキな町名が残ってますよね。旅行の裏目的はこの2つの町名の仁丹さがしにあったのですが、時間の都合により、あえなく断念しました。

ところで、京都といえば、四条烏丸西入ル〜♪でおなじみの、独特の住所表記にあります。碁盤の目状の道路の通り名を2つ並べて、上ル下ル西入ル東入ルで表現する独特のあれです。通りの名前さえ分かれば、すぐに位置が特定できてしまいます。個性的な町名や地番もほぼおまけ程度でしかありません。
街区方式の住居表示は、地図で見てる分には整然と数字を割り振って並んでいるように見えますが、町を歩いてみると、番号(街区符号)がとびとびでそうでもないように感じます。やはり道路を軸にして地形を捉える方が感覚的にわかりやすいように思われます。以上、だいたいのところは住所マニアの大御所であられる今尾先生の受け売りになるわけなのですが、わたくし個人としてはかなり賛同および共感できる点が多いと感じております。皆さまはどう思われますでしょうか?

とはいえ、街区表示板に罪はなし。次の旅行は、大阪で「中央区久太郎町四丁目渡辺」の街区表示板をさがしにいきたいと思っております。そんなことを考えながら過ごした街区表示板の日の一日でした。次回はいつもどおり金沢の旧町名紹介に戻る予定です。

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南禅寺三門(上)
南禅寺境内の水路閣(中)
見てるだけで楽しい京都の地図(下)
[参考文献:今尾恵介『住所と地名の大研究』新潮社(2004)]
[発見日:平成30年4月30日]

観音町二丁目

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】東山一丁目
【感想・雑記】金沢市民には、四万六千日ととうもろこしのお守りで有名な長谷山観音院でおなじみの観音町です。実はかなり初期の連載第2回目にご紹介済みの観音町二丁目ですが、若気の至りで、一丁目と二丁目を同時に公開してしまい、いささか後悔の念にさいなまれておりましたので、思いきっての再掲載です。しかし今回とて、新しいのが発見できたわけでもなく、ここは旧観音町二丁目だよ、と書いた看板を掲載したわけなのですが、、、
なんということでしょう!観音町が来年(平成31年?)にも復活するというではありませんか!となりますとこの看板も、「ここは旧東山一丁目17番/観音町二丁目です」と書きかえられることになるのかどうか、経過を見守りたいところです。

それにしても、ひがし茶屋街をはじめとする東山ひがし重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)を有し、圧倒的に知名度の高い「東山」の町名を捨てての観音町復活となるわけですから、町会の方の並々ならぬご苦労があったと偲ばれます。少し話しはそれますが、金沢市民の方であれば、東山=馬場校下と思われがちですが、浅野川沿いの旧観音町、旧御歩町あたりの一画だけはなぜか材木町校下なんですよね。そんな観音町の復活ということで、この構図、なんとなくスペインからのカタルーニャ独立、イギリス(連合王国)からのスコットランド独立をイメージしてしまうのは私だけでしょうか?(たぶん私だけでしょう・・・)

さて、そんな観音町復活につきまして、旧町名をさがす会金澤支部から"ある提案"がございます。
これまで、旧町名復活にあたってはいずれも住居表示実施による復活となっています。例えば主計町は、かつては金沢市主計町◯番地でしたが、復活後は金沢市主計町◯番△号として復活したわけです。おそらく今回、観音町も金沢市観音町二丁目◯番△号などとして復活することでしょう。
ところで、この住居表示には、街区方式と道路方式という2つの方式があります。東京オリンピック前後ごろより、合理化と称して全国津々浦々で行われてきた住居表示は、原則として街区方式によるものなのです。道路方式は、山形県東根市神町地区の一部などで例外的に実施されているのみなのです。
街区方式は、道路や河川等で区切られたブロック状の区画を「街区」として、町域に設定する方式なのですが、旧観音町は、観音院へとつながる通り沿いの、向こう三軒両隣が同じ町という両側町の町割りなので、道路で町域を区切る街区方式には適していないと思うわけなのです!
ですので、一介の住所マニアとしては、ぜひとも道路方式を適用しての観音町復活がふさわしいと考えるわけなのです!!道路方式では街区が設定されないので◯番(街区符号)がなく、金沢市観音町二丁目△号という、シンプルな住所設定になりますし、通り名式に住所が特定できてとても便利なのではないか、と推察するわけなのです!!!
まあ、おそらくこれまで同様、街区方式の柔軟な解釈による住居表示になるとは思うのですが、、、あくまで素人の見解ではありますが、住所の特定をしやすくするという住居表示制度の主旨にそえば、観音町は道路方式がいいと思うんだけどなあ〜。

ということで、観音町復活の知らせを祝いつつ、マニアックな話題全開で、町の紹介をほとんどしない回になりました。町のご紹介は、復活後の「観音町一丁目」であらためてお話ししたいと思います。
そういえば、消滅せずに残っている観音町三丁目の住居表示未実施地区は、復活によってどうなるのでしょうね。。。ではまた。

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正田家住宅(金沢市指定保存建造物)(上)
観音町で見つけた着せ替え(?)郵便ポスト(下)
[参考文献:今尾恵介『住所と地名の大研究』新潮社(2004)、いいね金沢(金沢市公式ホームページ)、Wikipedia
[発見日:平成24年1月22日]