新竪町一丁目

f:id:cho0808:20120520162959j:plain:h300 
【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】幸町、菊川二丁目
【感想・雑記】日曜日(平成24年10月21日)の北國新聞朝刊に、先日ご紹介したばかりの新竪町三丁目や観音町三丁目の記事が大きく載っていました!なんてタイムリーなんでしょう。ということで、前回は現存する新竪町三丁目のご紹介となってずるっこしましたので、今回は消えた新竪町一丁目とともに新竪町の歴史を振り返ってみたいと思います。

新竪町一丁目と二丁目は、昭和39年(1964年)の住居表示実施により幸町や菊川二丁目となってしまい、消滅しました。
犀川の河原だった一帯を元和2年(1616年)に埋立してできたのが以前にもご紹介した河原町ですが、町立て当初は、現在の片町界隈から新竪町校下を含むかなり広い町域だったそうです。そのうち、現在の竪町・新竪町付近は、通称で竪河原町と呼ばれていたとのこと。その後、竪町が分立して正式に一つの町となり、さらに竪町に続く通りとして新竪町が誕生しました。すでに寛文12年(1672年)には、文献に「新立町」として登場するらしいです。「新」竪町なのに相当古い歴史ですね。なお、竪町や新竪町はかつて、商業が栄えておおいに発展したのだそうです。
ちなみに「竪」の字は「堅い」の「カタ」の字とまちがうべからずです。カタマチだと別の町=片町とかんちがいしてしまいますので。。。
竪町や新竪町(竪河原町)の「竪」は「縦」と同じ意味で、片町、河南町(明治4年消滅)、河原町、大工町、池田町などが、犀川から見て横に(垂直に)並んでいたのに対して、竪町(竪河原町)は、犀川と並行して縦に並んでいたことによるらしいです。言われてみると、池田町のなかでも、犀川と並行する町の名前は「池田町立丁(たてちょう)」ですよね!(googleマップ参照)

ところで、お隣り竪町は、金沢一のファッションストリートです。片仮名で、"タテマチ"ってイメージ。標準服ダサイ系男子な中高生だったわたしには、踏み入るのもかなり勇気の要る場所でした。今はおしゃれなので(←うそ)、堂々と入れます。
一方、新竪町商店街はよくある昔ながらの商店街といったかんじ。とはいえ、最近は個性的でおされな雑貨屋さんやカフェなどが雑誌などにも取り上げられてるそうです。消えた新竪町一丁目、ニ丁目界隈も、新竪町の名前が消えたとはいえ、新竪町商店街の延長のような雰囲気がただよいます。蛇行する道路が胸キュンな、懐かしいかんじのするストリートでした。

f:id:cho0808:20121008164340j:plain:w210 
f:id:cho0808:20120520163717j:plain:w210
ファッションストリート "タテマチ"(上)
新竪町一・ニ丁目界隈(下)
[参考文献]「角川日本地名大辞典 17 石川県」(1981) 角川書店
[発見日:平成24年5月20日