木曽町

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】東兼六町、扇町
【感想・雑記】木曽路はすべて山の中である。ごぞんじ、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭ですが、今回ご紹介する木曽町(きそまち)の由来は、まさにこの木曽路にあります。現在は、大半が東兼六町の一部であることからということからもご想像のつくとおり、金沢の一大観光地、兼六園の東側、最短だと徒歩10分ほどのところに位置する町ですが、景色はさながら、山の中です。
旧木曽町は、材木町から小立野台地をのぼる坂の途上に位置しておりますが、町を流れる源太郎川の渓流や趣きが、信州の木曽路に似ていることから、この坂を木曽坂と呼ぶようになり、明治5年(1872年)には、町名も木曽町になったのだそうです。

ちなみに、木曽坂をのぼりきったところにある町が、「白い巨塔」とともにご紹介した百々女木町です。ちょうど上百々女木町下百々女木町の町境あたりに出ますよ。なお、渋谷から電車で約20分、東京23区唯一の渓谷といわれる等々力渓谷と同じく、川がどうどうと流れる轟音が「とどろき」や「どどめき」の由来だそうです。「轟」は「とどろき」とも「どめき」(えちぜん鉄道勝山永平寺線の駅名にあります)とも読みますね。

と、ここまでしれーっと掲載写真のことに触れずにきましたが、どう見ても失われた当時の町名のものではございませんので、明らかにずるをしているのは明白です。申し訳ありません。掲載した案内図をもとに木曽町をくまなく歩き回りましたが、残念ながら、失われる以前のものを発見するには至りませんでしたので、以前から発見してたこれを掲載する決意をいたしました。
それにしてもこの案内図、「東兼六町(旧木曽町) 町会案内図」とありますが、現在の東兼六町は旧木曽町だけではありません。木曽町のほかにも、成瀬町、飛梅町、ハ坂、小尻谷町、下百々女木町、小将町三番丁、材木町一丁目、二丁目の旧町名からなる町であり、そもそも東兼六町町会という町会はありません。また反対に、旧木曽町も、一部は扇町になっているので「東兼六町(旧木曽町)」という書き方は、必要条件も十分条件も満たさぬ不正確な記述であることになります。
しかしながら、木曽町のあまりの見つからなさ、そしてこの案内図から、東兼六町(旧木曽町)がこのように語りかけてきているような気がします。

やれやれ。きみは僕の昔の名前なんて興味はないかもしれない。でも僕は「木曽町」に愛着はあるし、今の僕を形作る何かでもある。ただ、ひとつだけ言いたい。信州や美濃からの借り物である「木曽」という名前にほんの少し、後ろめたい思いも感じてきたのも事実なんだ。だから今は金沢らしい「兼六」の仲間に入ってしあわせな気分だし、僕自身が東兼六町だとすら思ってる。それは、かつて僕の一部分だった扇町奴らも認めてくれるはずだ、とね。

・・・本当に町の声が聞こえるようになったら病気です。あくまでふぃくしょんですのでそこのところひとつよろしく。

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木曽坂の電池番号札(上)
木曽路に似てるのか?木曽坂の木曽町界隈(中)
源太郎川の渓流と轟音(下)
[参考文献:高室信一『復刻新版 金沢・町物語』能登印刷出版部(2013年)]
[発見日:平成30年3月18日]

【京都市上京區】南禅寺福地町

f:id:cho0808:20180430103500j:plain:h350:left【消滅した年】昭和4年(1929年)
【現在の町名】京都市左京区南禅寺福地町
【感想・雑記】黄金週間は京都旅行に行ってきました!の番外編です。観光で訪れた南禅寺で発見した仁丹の町名表示板です。まあ知ってる人は知っている有名な仁丹かもしれません。南禅寺は、臨済宗南禅寺派大本山で、石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」で知られる大きな三門(山門)と、境内にある琵琶湖疏水水路閣が有名な観光地だそうですが、このたびはじめて訪れました。なお、南禅寺福地町は現役町名なので、旧町名というには非常に心苦しいところですが、昭和4年上京区から左京区が分区する以前の上京区時代のものなので、ギリギリ旧町名として認定していただきたいものです。

さて、本日5月10日は街区表示板の日だそうです。昭和37年(1962年)の本日5月10日に「住居表示に関する法律」が公布・施行されたことを記念して制定された記念日だそうです。でも仁丹は街区表示板ではないよ。なお、仁丹とはなんぞやという問いについては京都仁丹樂會さんのサイトなどを検索してみてください。かなり詳しい情報が得られますよ。

住居表示については、この日記でも何度もお話ししていますが、日本全国の幾千もの町名が消滅する原因(旧町名が誕生する原因?)となった制度といわれています。道路や河川等で町を区切るという街区方式が、古くは太閤町割りにも由来するという背割りの町々を壊し、住居表示の実施基準が、藩政期から続いてきた数ヘクタールにも満たないような小さくとも個性的な名前の町々を消し去るのに十分な破壊力を発揮したわけです。
しかしながら、京都の人々はその恐ろしい破壊力に気がついていたのか、住居表示制度の適用を拒絶することに成功したようなのです。そのため、京都の町には数多くの個性的な町が残り、また仁丹の町名表示板も残ることになったと考えられるわけなのです。京都の地図をながめてるだけで白めし3杯は軽くいけます(おおげさ)。天使突抜四丁目とか、元悪王子町とか、なんともステキな町名が残ってますよね。旅行の裏目的はこの2つの町名の仁丹さがしにあったのですが、時間の都合により、あえなく断念しました。

ところで、京都といえば、四条烏丸西入ル〜♪でおなじみの、独特の住所表記にあります。碁盤の目状の道路の通り名を2つ並べて、上ル下ル西入ル東入ルで表現する独特のあれです。通りの名前さえ分かれば、すぐに位置が特定できてしまいます。個性的な町名や地番もほぼおまけ程度でしかありません。
街区方式の住居表示は、地図で見てる分には整然と数字を割り振って並んでいるように見えますが、町を歩いてみると、番号(街区符号)がとびとびでそうでもないように感じます。やはり道路を軸にして地形を捉える方が感覚的にわかりやすいように思われます。以上、だいたいのところは住所マニアの大御所であられる今尾先生の受け売りになるわけなのですが、わたくし個人としてはかなり賛同および共感できる点が多いと感じております。皆さまはどう思われますでしょうか?

とはいえ、街区表示板に罪はなし。次の旅行は、大阪で「中央区久太郎町四丁目渡辺」の街区表示板をさがしにいきたいと思っております。そんなことを考えながら過ごした街区表示板の日の一日でした。次回はいつもどおり金沢の旧町名紹介に戻る予定です。

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南禅寺三門(上)
南禅寺境内の水路閣(中)
見てるだけで楽しい京都の地図(下)
[参考文献:今尾恵介『住所と地名の大研究』新潮社(2004)]
[発見日:平成30年4月30日]

観音町二丁目

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】東山一丁目
【感想・雑記】金沢市民には、四万六千日ととうもろこしのお守りで有名な長谷山観音院でおなじみの観音町です。実はかなり初期の連載第2回目にご紹介済みの観音町二丁目ですが、若気の至りで、一丁目と二丁目を同時に公開してしまい、いささか後悔の念にさいなまれておりましたので、思いきっての再掲載です。しかし今回とて、新しいのが発見できたわけでもなく、ここは旧観音町二丁目だよ、と書いた看板を掲載したわけなのですが、、、
なんということでしょう!観音町が来年(平成31年?)にも復活するというではありませんか!となりますとこの看板も、「ここは旧東山一丁目17番/観音町二丁目です」と書きかえられることになるのかどうか、経過を見守りたいところです。

それにしても、ひがし茶屋街をはじめとする東山ひがし重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)を有し、圧倒的に知名度の高い「東山」の町名を捨てての観音町復活となるわけですから、町会の方の並々ならぬご苦労があったと偲ばれます。少し話しはそれますが、金沢市民の方であれば、東山=馬場校下と思われがちですが、浅野川沿いの旧観音町、旧御歩町あたりの一画だけはなぜか材木町校下なんですよね。そんな観音町の復活ということで、この構図、なんとなくスペインからのカタルーニャ独立、イギリス(連合王国)からのスコットランド独立をイメージしてしまうのは私だけでしょうか?(たぶん私だけでしょう・・・)

さて、そんな観音町復活につきまして、旧町名をさがす会金澤支部から"ある提案"がございます。
これまで、旧町名復活にあたってはいずれも住居表示実施による復活となっています。例えば主計町は、かつては金沢市主計町◯番地でしたが、復活後は金沢市主計町◯番△号として復活したわけです。おそらく今回、観音町も金沢市観音町二丁目◯番△号などとして復活することでしょう。
ところで、この住居表示には、街区方式と道路方式という2つの方式があります。東京オリンピック前後ごろより、合理化と称して全国津々浦々で行われてきた住居表示は、原則として街区方式によるものなのです。道路方式は、山形県東根市神町地区の一部などで例外的に実施されているのみなのです。
街区方式は、道路や河川等で区切られたブロック状の区画を「街区」として、町域に設定する方式なのですが、旧観音町は、観音院へとつながる通り沿いの、向こう三軒両隣が同じ町という両側町の町割りなので、道路で町域を区切る街区方式には適していないと思うわけなのです!
ですので、一介の住所マニアとしては、ぜひとも道路方式を適用しての観音町復活がふさわしいと考えるわけなのです!!道路方式では街区が設定されないので◯番(街区符号)がなく、金沢市観音町二丁目△号という、シンプルな住所設定になりますし、通り名式に住所が特定できてとても便利なのではないか、と推察するわけなのです!!!
まあ、おそらくこれまで同様、街区方式の柔軟な解釈による住居表示になるとは思うのですが、、、あくまで素人の見解ではありますが、住所の特定をしやすくするという住居表示制度の主旨にそえば、観音町は道路方式がいいと思うんだけどなあ〜。

ということで、観音町復活の知らせを祝いつつ、マニアックな話題全開で、町の紹介をほとんどしない回になりました。町のご紹介は、復活後の「観音町一丁目」であらためてお話ししたいと思います。
そういえば、消滅せずに残っている観音町三丁目の住居表示未実施地区は、復活によってどうなるのでしょうね。。。ではまた。

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正田家住宅(金沢市指定保存建造物)(上)
観音町で見つけた着せ替え(?)郵便ポスト(下)
[参考文献:今尾恵介『住所と地名の大研究』新潮社(2004)、いいね金沢(金沢市公式ホームページ)、Wikipedia
[発見日:平成24年1月22日]

上百々女木町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】石引一丁目
【上記画像出典】テレビドラマ(フジテレビ放映)『白い巨塔』(1978年版)第9回 開始30分20秒すぎ(原作:山崎豊子、製作:田宮企画・フジプロダクション、主演:田宮二郎山本學など)
【感想・雑記】今回はなんと、テレビ画像の引用という初の試みです。著作権侵害の無断転載にならぬよう、引用要件を満たすように論ずる所存でございます。
さて、こちらの画像は、財前五郎教授を演じた田宮二郎さんの遺作としてあまりにも有名な「白い巨塔(1978年版)」のワンシーンです。通りすがりの人さんに教えていただきました。ありがとうございます。ただし審議の青ランプが点灯しているようです。とりあえず、お手持ちの勝ち馬投票券は確定までお捨てにならないようご注意ください。とりあえず審議の件についてパトロールビデオならぬパトロール写真を放映します。ひとつずつ検証していきましょう。

1.ロケ地は本当に上百々女木町か?
まず、この場面が本当に上百々女木町(かみどどめきまち)なのかどうかを検証しましょう。現在の上百々女木町付近の画像がこちらです。
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いかがでしょうか?40年前なので大きく様変わりした可能性は否定できませんが、町の雰囲気が全くちがうようにもみえます。

2.街区表示板は本物か?
次に、写っている街区表示板に注目です。次に示すのは、わたしが上百々女木町付近で見つけた街区表示板です。
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いかがでしょうか?新旧両タイプを載せましたが、旧型の表示板(上)と見比べても、違いは一目瞭然ですね。まずテレビ映像の「上百々女木町」には、私が見つけた宝町の街区表示板にはない「金沢市」の市町村名がありますし、反対に、本来あるはずの街区符号がありません。街区符号とは◯番△号の◯の数字ですが、上百々女木町のものには数字がないので、これは街区表示板の要件を満たしていません。そもそも上百々女木町は、住居表示によって「街区」というものが設定される以前の地番住所なので、街区表示板であるはずがないのです。

3.仁丹町名表示板のたぐいではないか?
いや待てよ。京都の町で見かける仁丹の町名表示板のたぐいのものもあるぞ?!仁丹の町名表示板については以下の参考資料をご覧ください。
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また、東京にも、仁丹ではありませんが行政の設置した琺瑯引きの町名表示板を見かけることがあります。有名なものでいえば、この「芝區豊岡町」の味の素の看板でしょうか?
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これらと見比べてみると、上百々女木町には仁丹や味の素などの企業広告は見られませんし、琺瑯っぽくもないようです。それに、わたくし今年で金沢での旧町名探し歴6年半になろうとしていますが、いまだに行政設置の旧町名表示板発見には至っておりません。もし存在したのであれば、1つくらいは見つかってもいいはず。したがいましてわたくし、おそらく金沢では旧町名の町名表示板は設置されなかっただろうと推測しておるわけです。

4.二丁目の疑惑・・・そして確信へ
金沢市上百々女木町二丁目」。違和感。というのも、上百々女木町には「丁目」の設定はありません。金沢の旧町名で「丁目」の設定があるのは街道沿いの細長い町割りの数限られた町だけなのです。ですからこの町名表示板、本物であるはずがないのです!これはドラマのために作られた小道具にまちがいないのです!では、なぜ町名表示板は存在しないはずの「上百々女木町二丁目」などとしてしまったでしょうのか?

実は、これは原作の山崎豊子さんの仕業?なのです。この場面、財前たちの一派が、金沢大学の菊川助教授のもとを訪れ、教授選の立候補辞退を強要する場面なのですが、原作にはこうあります。

広坂の坂道を上り詰め、兼六園の横を通り過ぎると、(中略)小高くなった小立野台地に、金沢大学医学部と附属病院が、雪をかぶった純白の容を見せていた。
「上百々女木町というと、この近くかな」
佃は、金沢の市街地図を見ながら、運転手に聞いた。
「ほうや、何丁目ですか」
「三丁目の菊川昇という人の家なんだが、ちょっと探してくれないかな」
(出典:山崎豊子 1965年「白い巨塔(2)」(新潮文庫版p.107-108頁より一部引用)

白い巨塔では、大阪大学浪速大学という架空の名称なのにもかかわらず、金沢大学は実名になっています。また、上百々女木町という当時実在の町名をあげ、町の場所も大学病院そばとして小立野台地まで正確に描写しているのに、架空の三丁目を設定しています。このように、事実と虚構の間を行き来させつつ、あくまでドキュメンタリーではない臨場感のある社会派小説をあまた書いてきた山崎さんの工夫、あるいは遊び心だったのではないでしょうか。
ということで、本日の日記は、上百々女木町のご紹介そっちのけで、検証記事を執筆させていただきました。つまりは、上百々女木町は未発見ってことなんですけどね。。。なお、上百々女木町の由来については下百々女木町の回をご覧ください。

旧上百々女木町界隈(1の写真)
宝町で見つけた旧型の街区表示板(2の写真上)
同じく宝町で見つけた新型の街区表示板(2の写真下)
京都で見つけた仁丹の町名表示板(3の写真上)
東京で見つけた芝區豊岡町の行政町名表示板(3の写真下)
[発見日:平成30年4月14日]

桜木七ノ小路

f:id:cho0808:20120630175325j:plain:h300:left【消滅した年】昭和38年(1963年)
【現在の町名】寺町二丁目、寺町四丁目、泉野町二丁目
【感想・雑記】花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
4月に入って金沢も連日のぽかぽか陽気。桜も満開の時期を過ぎて、残念ながら一転して肌寒い雨の週末です。今年は何年ぶりかの大雪を経験し、春もずいぶん先だと思ってたら、いつにもまして早く春がやってきました。冬きたりなば春遠からじ・・・ですね。

さて、桜の時期ならではの旧町名、桜木の紹介です。ほうら!この金澤の文字、旧町名専用フォントだよ。ム、チョンチョン、土で構成された「金」の字体と、行書体のサンズイに、ム+手の「澤」の字体。まさか見覚えがないとは言わせないゾ☆
なお、見つけた旧町名の表札には「桜木町七ノ小路」とありますが、正確には「桜木七ノ小路」で「町」はつかないそうです。
場所は寺町台、寺町二丁目と三丁目のバス停の間付近を、野田往還(野田道)から山手(泉野方面)の小路を入ったあたりの町名です。桜木一ノ小路から桜木十ノ小路までありました。こちら藩政期からの町名ですが、よくある◯番丁でなく◯ノ小路というのが珍しい感じです。ちなみに、野田往還をはさんで反対の川手(犀川方面)の小路は、かつて桜畠一番丁から十番丁でした。どちらも桜の名前を町名に持つ桜エリアでしたが、住居表示によって、すべてほぼ「寺町」になってしまいました。
町名の由来は、桜畠も桜木も共通で、桜の木が一帯に植えられていたことによるようですが、現在、このへん一帯に広がるようなお花見スポットはなく、ほぼ住宅地です。なお、桜木のほうは、近くに鎮座まします泉野櫻木神社に由来するともいわれているそうです。(出典:金沢市ホームページによる)

泉野櫻木神社は、尾張名古屋に小さな祠が建てられたのがはじまりとされ、延徳4年(1492年)に泉野の地に移ってきたとされます。明治15年(1882年)に現在の泉野櫻木神社へと改称されました。ちなみにご尊像は、養老元年(717年)に泰澄上人が桜の木で彫ったものと伝えられています。そうです!白山を開山した泰澄上人が白山を開山した年に彫ったご尊像、ということなのです!まだまだ続くよ、白山アレコレ。。また、泉野櫻木神社の標柱の揮毫は木村栄(ひさし)博士によって書かれたものらしいのですが、、、木村栄博士についてはまた別の機会にお話しすることにしたいと思います。もしかしたら次の桜の時期になるかもね?

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泉野櫻木神社(上)
寺町の桜といえばここ(散りぎわの松月寺大桜)(下)

[参考文献:いいね金沢(金沢市公式ホームページ)、市民が見つける金沢再発見、泉野櫻木神社の由緒書き]
[発見日:平成24年6月30日]

蛤坂町

f:id:cho0808:20160131114506j:plain:h350:left【消滅した年】昭和42年(1967年)
【現在の町名】寺町五丁目、野町一丁目
【感想・雑記】目で見るだけが旧町名じゃないよ。心で読めばきっと読める旧町名です。心で読めば、ほーら浮かび上がる蛤の文字。。。?肉眼では決して読めません!
とにかく、文化庁の古文書解析技術ならまだしも、iPhoneの写真加工ではどうにもならないレベルです。ギリギリ肉眼で読めるのは特徴的な字体の「金澤(沢?)」の文字ぐらい。しかしこのフォント、芳斎町味噌蔵町東丁山の上町二丁目高道新町河原町などのフォントと類似しています。「金」のかさ部分が「ム」な感じの頂点に両脇点2つで、「玉」がほぼ「土」の感じとか、「澤」の偏が行書体になってて、旁が「ム」+「手」みたいな感じとか。(イメージ伝わってるかしら?)
ゆえに、これは明らかに時代考証上、旧町名にしかみられないフォントだとガクジュツ的に結論づけられるわけです。あとはひたすら蛤探し。潮干狩るか、信じる心で読むか、文化庁に依頼するしかないでしょう。。。

さて、強引に発見したことにして、蛤坂町(はまぐりざかまち)のご紹介に入ります。蛤坂とは、犀川大橋南詰の交差点から寺町台にあがる坂の名称です。でもって、蛤坂町は蛤坂の下から、坂上にある寺町の忍者寺の手前まで続く町立てです。蛤坂の由来は諸説ありそうですが、かつて妙慶寺坂と呼ばれたせまくて急な坂道だったのが、享保18年(1734年)の大火のあとに道が拡張されたときに、焼けて口を開いたという意味で「蛤坂」と俗称されるようになった、という説が一番あってる気がします。(説は角川日本地名大辞典に記載の説などによる)。「蛤に見える説」もあるけど・・・見えないよ!

【蛤坂町の正しい楽しみ方講座】
突然ですが、蛤坂町の楽しみ方講座の時間です。我々から楽しい旅のご提案です。
1.山錦楼を愛でる。
大正11年(1922年)建築の歴史を感じる美しい建築物です。ちなみにこの建物は今でも現役の高級料亭です。
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2.妙慶寺を参拝する。
妙慶寺坂の由来となった浄土宗寺院です。天狗の守るお寺といわれています。松平家菩提寺で、幕末の加賀藩家老、松平大弐のお墓や石碑があります。松平大弐さんは、蛤御門の変(禁門の変・平治の変)で、幕府派の薩摩藩会津藩新撰組等と尊攘派(反幕府派)の長州藩とが武力衝突した際に、14代藩主の前田慶寧公が京都御所警護の任務を放棄して近江海津の加賀藩領地に退去したために長州藩との内通の疑いを受けたことから、その責任を取る形で自害しました。禄高上、第一家老であった山崎庄兵衛は放免されたことから「第一に死ぬべき者が死なずして大弐が死んで何と庄兵衛」という落首が流行ったとか。(出典:「市民が見つける金沢再発見」より)
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3.寺町追分の道標を見つける。
「右つるぎ道、左のだ道」と書かれた道標です。蛤坂交差点は、野田山に向かう野田往還と鶴来へ向かう旧鶴来街道の分岐点で、寺町追分ともいわれます。野田往還は前田家墓所のある野田山への墓参のため整備された道です。鶴来街道は蛤坂町を起点としてしらやまさんのある鶴来町方面へと向かうご参詣道です。ちなみに「のだ」の文字は風化して読めません。
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4.お土産屋さんに立ち寄る。
忍者寺参道のお土産屋さんで、昭和のヤンキー御用達のファンシーninjaグッズに昭和を感じましょう。ていうか、今でも売ってるのでしょうか?木刀とかshinsen-gumi的なファンシーアイテムの数々。ちなみに忍者寺そのものは、蛤坂町ではなく泉寺町になります。
5.自転車で蛤坂をかけのぼる。
自転車で坂をかけのぼろう!犀川大橋の交番手前から、信号が変わったと同時に自転車で交差点をわたって蛤坂をかけのぼると、坂上の蛤坂交差点を信号ギリギリで渡れます。蛤坂町を一気にかけぬけ、山錦楼も妙慶寺も道標も全て無視の全速力。もちろん立ちこぎです。高校時代のわたしの楽しみ方、というか遅刻ぎりぎりのわたしの日課。。。
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6.肉眼で読める蛤坂町をさがす。
発見したらご一報ください。

金沢市指定保存建造物の山錦楼(1の写真)
浄土宗・安養山妙慶寺(2の写真)
寺町追分の道標(3の写真)
実に走りたくなる蛤坂(5の写真)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、市民が見つける金沢再発見、いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成28年1月31日]

三社宮ノ後

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】三社町
【感想・雑記】現在の三社町(さんじゃまち)には、かつて三社◯◯町を冠する町名がいくつもありました。この三社宮ノ後(さんじゃみやのうしろ)のほか、三社宮ノ前、三社弓ノ町、三社五十人町、三社川岸、三社山田町、三社垣根町などなど。いずれも昭和40年に消滅して、大部分が「三社町」になってしまいました。そしてこの三社町は、デンリョクの電柱番号札以外のものが見つからない旧町名の絶滅エリアとしても知られます。旧町名さがしをはじめた平成24年冬に「三社垣根町」の表札が残されているお家を発見したのですが写真を忘れ、夏に訪問したときにはすでに取り壊されてしまっていたという悲しい出来事もありました。そのため今回は、通常のスチールタイプと異なる昭和37年モノの手書き文字風「三社宮后線」によるご紹介です。ちなみにNTTの番号札は「三社宮前幹」なので、ここが三社宮ノ前なのか三社宮ノ後なのか議論のあるところですが、歴史あるデンリョク優先で掲載いたします。立地的にもたしか「宮の後」だった記憶があります。

社町の地名は、三社の宮といわれた豊田白山神社に由来するそうです。石川県神社庁のホームページによると、由来書や三社宮御縁起には、養老元年(717年)に白山を開山した泰澄上人が、その翌年の養老2年、石川郡戸板庄に白山三ヶ明神を勧請して三社権現といったのがはじまりとのことですが、実際には諸説あるようです。なお、豊田白山神社の「豊田=とよた」は戸板の当て字だそうです。また、すでにお分かりのとおり、三社宮ノ後は、三社の宮である豊田白山神社の宮の後ろにあった町なのでその名がついたものと思われます。

さて、全国二千社以上ある白山神社ですが、ご祭神は白山比竎大神で、菊理媛命(ククリヒメノミコト)と同じ神さまとされています。菊理媛命日本書紀に少しだけ登場する神さまで、イザナギイザナミの仲を取り持った縁結びの神さまだそうです。前回ご紹介した鶴来町新町には、創業約450年にもなる菊姫という日本酒の酒造会社がありますが、もちろんこの菊理媛命に由来します。

鶴来町には、新町の菊姫さんのほか、本町の小堀酒造さんもあります。「萬歳楽」という日本酒で有名ですよ。加賀の美味しいお米と、霊峰白山から流れる手取川のきれいや水から作られるお酒は、加賀の菊酒といわれており、白山市の5社の蔵元で作る「白山菊酒」というブランドもあります。なお加賀の菊酒についてのお話しは、わたしの駄文なんかではなく、菊姫ホームページより「加賀菊酒考」の小論をご覧になるとよいでしょう。

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釤三社の宮釤豊田白山神社(上)
鶴来新町の菊姫さん(中)
鶴来本町の小堀酒造さん(下)
[参考文献:石川県神社庁ホームページ、菊姫合資会社ホームページ、ウィキペディア
[発見日:平成25年5月19日]