【富山縣東礪波郡】大鋸屋村理休

f:id:cho0808:20120330131220j:plain:h300:left【消滅した年】昭和27年(1952年)
【現在の町名】東礪波郡城端町理休→南砺市理休
気づけば夏もとっくに終わり、秋がきてしまいました。夏山シーズンも終わろうとしていますが、今シーズンは富士山に登られた方も多かったときいております。今年、ようやく世界遺産に認定された富士山ですが、われらが北陸の誇る世界遺産といえば、岐阜県白川郷とともに、富山県五箇山地方に残る合掌造りの集落です。そんな五箇山では、この3連休に麦屋祭が開かれました。また、来たる9月25日、26日にコキリコ祭が開かれます。ということで、今回は金沢を離れ、おとなり富山をご紹介する特別編でご紹介いたします。(ただでさえ連載が滞っているのに特別編ばかりとの声もちらほら・・・)

五箇山とは、富山県南砺市の一部の地域を指します。いわゆる「平成の大合併」以前の市町村でいえば、東礪波郡の平村、上平村、利賀村にまたがる地域です。合掌造りについては、ごぞんじかと思いますが、急勾配な茅葺き屋根の住居です。Google検索などで写真を見ればあああれね、と思うはずです。思わない人はぜひ観光にきてみてください。富山県では、旧平村の相倉(あいのくら)集落や旧上平村の菅沼(すがぬま)集落が有名です。

さて、冒頭でもご紹介した2つのお祭りですが、いずれも麦屋節、コキリコ節とよばれる伝統民謡に由来するお祭りです。コキリコ節は、「ささら」とよばれる楽器を打ち鳴らしながら歌う民謡です。日本最古の民謡とされているそうです。「まーどのさんさもででれこでん♪」金沢人でもおそらくそこそこみんな歌えるはず。
また、麦屋節は紋付・袴に白たすきをした若者衆が笠をくるくる回しながら、民謡にあわせて勇壮に舞います。「風の盆恋歌」で一躍有名になった越中八尾の「おわら節」もよいのですが、いかんせん観光客が多すぎて見にいくだけで一苦労。その点、麦屋節は知名度がやや劣るのか、若い男女の勇壮・可憐な舞いが近くで見ることができとてもおすすめですよ。

そして、五箇山の麦屋祭とならんで、お隣り町にあたる城端(じょうはな)のむぎや祭も有名です。おととし見にいってきました。今年も行きたかったのですが仕事と豪雨により断念しました。今回ご紹介する大鋸屋村は、その城端町の前身の旧町名でして、おととしの城端むぎや祭の写真とともにご紹介することといたします。
大鋸屋村は「おがやむら」と読みます。昭和27年(1952年)、同じ東礪波郡の旧城端町南山田村、北野村、蓑谷村と合併して、新制の城端町となって消滅しておりますが、そんな城端町も、平成16年(2004年)の「平成の大合併」により東礪波郡の平村・上平村・利賀村・井波町・井口村と、西礪波郡の福光町が合併し、南砺市となって消滅しました。ついでにいうと、東礪波郡も西礪波郡も消滅しました。うーむ。消滅、消滅、また消滅。

最後に五箇山に関して、金沢に関する話題をひとつ。本日ご紹介した五箇山地域は、かつて「加賀藩の火薬庫」という物騒な別名を持っていました。黒色火薬の原料である塩硝が秘密裡に製造されていたのです。自然の草と蚕のフンなどを培養し硝酸塩を生成したというのですからバイオテクノロジーを駆使した化学兵器といえます。何ともおそろしや。戦国時代には石山本願寺と信長の戦いにも使われるなど、その歴史は古いようです。品質のよさも、加賀藩のものが最上品で、筑前福岡藩のものがこれに次ぐのだとか。
また、五箇山から運んでくるだけではなく、金沢にも小立野地区のさらに奥、土清水(つっちょうず)から涌波地区にかけて塩硝蔵があったそうです。
そんな塩硝を運んだ「塩硝の道」についても、金沢市南砺市で「よみがえる塩硝の道プロジェクト」として、道の整備・調査がすすんでいるそうです。土清水から涌波、湯涌を経て、ブナオ峠を越え、南砺市福光の太美山(ふとみやま)から五箇山に至るルートとのこと。こりゃ、今から2ヶ月後にせまる金沢検定対策としてちゃんと勉強しておく必要がありそうですね。ではまた。

f:id:cho0808:20110918180903j:plain:w210 
f:id:cho0808:20110918181205j:plain:w210 
城端むぎや祭(2011)の様子(上・下)
[参考文献:金沢市崎浦公民館HPなど]
[発見日:平成24年3月30日]