浅野町

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】小橋町、昌永町
遅々としているまま、とうとう彼岸過迄来てしまいました。暑さ寒さも彼岸まで、ということであっというまに冬がやってきそうです。そんなお彼岸といえば、「浅野川七橋めぐり」です。お彼岸の中日の午前0時に新しい白い下着をつけて、無言で浅野川にかかる7つの橋を渡ると、下ハンシン関連の病気にかからない、という言い伝えのある伝承行事です。春と秋のお彼岸それぞれでとりおこなわれます。ちなみに浅野川の7つの橋というのは、上流より常盤橋、天神橋、梅の橋、浅野川大橋、中の橋、小橋、昌永橋のことで、途中にかかる彦三大橋は含みません。彦三大橋は昭和63年(1988年)架橋の新しい橋だからと思われますが、七橋めぐりにご参加される際はくれぐれも渡りまちがえることのないようご注意くださいね。なお、七橋めぐりにはほかにも、途中で振り返ってはならない、一筆書きに歩く、など細かなルールがあるそうですよ。
さて、そんな今回は、現町名が小橋町と昌永町で、下流2つの橋の名前を持つ「浅野町」のご紹介です。読み方は「あさのまち」です。

浅野町といえば浅野町小学校ですが、「小学校名(校下名)になっている町は残る」の法則に反して、浅野町は昭和41年(1966年)に消滅してしまいました。なお、お隣りの浅野本町は昭和41年の住居表示により一丁目と二丁目が誕生し、今も健在です。浅野町もてっきり現役町名かと思っていました。
浅野町小学校は歴史のある小学校で、かつては「勉致(べんち)小学校」とよばれていたそうです。なんでも、加賀藩13代藩主の前田斉泰(なりやす)公が、鷹狩りの途中に見かけた学童のあまりの熱心な勉学ぶりを見て「勉め致す」の精神から、勉致小学校と名付けられたのが由来だそうです。今も浅野町小学校の校訓として「勉致魂」という言葉が息づいているとのことでした。ちなみに浅野町は、もとはといえば石川県河北郡浅野村で、明治22年(1889)年に河北郡中口村、明治40年(1907年)に河北郡小坂村となって、昭和11年(1936年)に金沢市編入されました。なお勉致小学校は、金沢市編入の3年後の昭和14年(1939年)に、浅野町尋常小学校と併合されたとのことです。

ところで、この夏のお茶の間の話題をにぎわせた、倍返し、100倍返しの例の銀行員、半沢さんですが、じつは金沢出身であることが判明し、にわかにもりあがっているようです(お父さんはなぜかこてこての関西弁)。なかでも奥さんの花が、金沢土産として買ってきて、ご主人の直樹さんが「これ好きなんだよねー」とか言って食べた俵屋の「じろあめ」の売上げが130%にも伸びたとか。「じろあめ」は一切砂糖を使わず、米と大麦だけで作られた昔ながらのあめです。この俵屋さんの本店は、小橋町にあります。小橋町は、昭和41年(1966年)に水車町、御仲間町(おちゅうげんまち)、馬場六番丁、馬場五番丁などを合併して大きくなりましたが、その一部となっているのが今回ご紹介した浅野町となります。そういえば直樹さんは堺雅人さん、花さんは上戸彩さんですが、2010年公開の『武士の家計簿』の主演と今年12月公開の『武士の献立』主演がそれぞれ直樹と花。いずれも加賀藩が舞台の『武士の○○』、そして直樹さんは金沢出身とゆう、そんなお話しでした。次回もおそらく「じろあめ」にまつわるお話しになる予定です。

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あめの俵屋本店
[参考文献:石川県金沢市浅野町校下ホームページ、市民が見つける金沢再発見ほか]
[発見日:平成24年3月3日]