材木町七丁目

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】橋場町
【感想・雑記】仕事の都合で、しばらく福岡を行ったり来たりする生活になりました。平安時代であれば左遷です。道真公であれば「東風ふかば匂いおこせよ梅の花〜」などと一首ひねるとこですが、平成時代でも左遷ということになるのでしょうか。まあ左遷だろうがなんだろうが、おいしいもの食べられそうだし別にいいや。。
…ということで更新頻度がますます落ちそうな早春の候デス。

今回ご紹介するのは材木町(ざいもくちょう)です。といっても材木町は現役町名。しかーし!材木町”七丁目”なのであります。現役の材木町には「丁目」の設定がございませんので、りっぱな旧町名ということになります。昭和39年(1964年)の東京オリンピック前後にはじまった住居表示にともなって「丁目」が設定された例は全国数多いのですが、逆にかつてあった「丁目」がなくなるパターンは珍しいのです。東京でも新小川町、日本橋兜町日本橋箱崎町など数例がみられるのみとなっております。

材木町は、かつての姿と今の姿がおどろくほどちがっています。昭和41年以前は、旧街道然とした長細〜い線状形の典型的な両側町でしたが、昭和41年の住居表示では、四角いブロック状の形になってしまいました。新旧ふたつの町を重ねると、まるでかたつむりの胴体(旧町域)と殻(新町域)のように見えます。なお、新しい材木町は旧又五郎町と備中町が町域の大半を占めており、旧材木町と重なるのは三丁目のごく一部と四丁目、五丁目のみとなっています。

そもそも「丁目」とは、長さの単位である「丁(町)」に由来しており、1丁(町)は約109m。基準地点から約109mごとに一丁目、二丁目と線分に区切るのが本来の意味なのです。「丁」が長さの単位である以上、現在のようにブロック状(面状)の町域に「丁目」をつけるのは本来の用法からすると正しくないようです。
かつての材木町は、天神町へと続いており、「オコ谷往来」と呼ばれる古い街道がありました。この街道沿いに、藩政期に存在した上材木町と下天神町との境目を基準地点として、下材木町方向に向かって約100〜200mずつ一丁目、二丁目と線分に区切られていました。このうちの七丁目はオコ谷往来の最も入口にあたります。

オコ谷往来は、越中国砺波の福光町へぬける最短ルートで、正規の北国街道を使うのに比べて半分の距離の22kmで行けたのだそうです。オコ谷の名前は、金沢の町に一向宗(浄土真宗)を広めた蓮如上人が、あまりの困難な山道に「オコオコ」越えたことから名付けられた名前とのこと。そのオコ谷往来は、今も県道27号線として、金沢大学角間キャンパスを抜けて富山県南砺市方面へとむかう最短ルートとなっていますよ。会社が富山にあるのでたまに使ったりしますが、わたしの軽自動車も「オコオコ」と越えてゆきます。

旧材木町は道がくねくねしていますが、これは源太郎川の流れに沿って道ができているためです。この源太郎川は、かつて東外惣構堀の一部として金沢城下を囲む環濠の役割を果たしていました。細々と流れる源太郎川は、今はもうその面影もありませんが、かつては金沢の城下を守る重要な役割を果たしていた、ということになります!源太郎川は、小立野台地から木曽谷を流れ下り、途中で東外惣構堀と合流します。その後、旧材木町とほぼ並行に流れてゆき、最後は材木町七丁目にある小鳥屋橋の下をくぐって浅野川に注いでいます。
なお、源太郎川にかかる小さな小さな小鳥屋橋ですが、江戸時代にあった小鳥屋町に由来しています。オコ谷往来の入口にあった小鳥屋町は、明治5年(1873年)に材木町七丁目に合併されて消滅しました。ですので、材木町七丁目は一丁(109m)よりも多少長くなっておるものと思われます。
えーっと、ここまで材木町の由来についてはまだ全然お話ししておりませんでしたが、すでに時間となりましたので続きはwebで・・・じゃなくて、続きはまた近いうちに!

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グーグルマップ(拡大してね) ※赤が旧材木町、青が現在の材木町(上)
小鳥屋橋から材木町七丁目を望む(中)
浅野川に注ぐ源太郎川・東外惣構堀(下)
[参考文献:今尾恵介『住所と地名の大研究』新潮社(2004)、市民が見つける金沢再発見金沢市田上公民館だより
[発見日:平成24年4月14日]