穴水町一番丁

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】長土塀一丁目、長土塀三丁目
【感想・雑記】五番丁からはじまった穴水町、最終回の一番丁です。デンリョク系番号札の表記が「穴水町」に戻りました。二番丁だけが「玉川左七」だったのはなぜでしょうね。そういえば、校下(小学校区)がいつのまにか芳斎町校下から長土塀校下に変わっています。お気づきでしたか?

さて、同じ「コウカ」違いの「校歌」の話題で穴水町を締めるのでしたね。気づけば季節も早や三月。別れの季節です。石川県内、高校の卒業式はほぼ終わりました。思えば、人生で校歌というものを歌うのは思春期だけなんですよね。思春期ゆえの反抗心でなかなか歌わないんですけどね。今聞くと少しなつかしいような甘ずっぱいようなかんじです。校歌は遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの、なのでしょうか・・・。

かつて穴水町にあった金沢二水高等学校の校歌を作詞したのは折口信夫(オリグチシノブ)です。日本を代表する民俗学者(博士)です。民俗学をベースに宗教学、国文学、国語学、人類学などの多岐にわたる学問分野から「折口学」ともよばれたそうです。霊的な存在や信仰を研究し、異世界からの来訪者「まれびと」を論じたとのことです。
折口博士は明治20年(1887年)、大阪府西成郡木津村(現・大阪市浪速区)の今宮戎近くで生まれました。明治38年(1905年)、旧制大阪府第五中学校を卒業後、東京・飯田町に新設されたばかりの國學院大予科へすすみます。東京では、麹町區土手三番町の藤無染(フヂムセン)という新仏教家の下宿で同居生活だったそうです。藤無染は折口博士より9歳年上で、博士が13歳ではじめて大和路を旅したときに出会って恋に落ちたらしいとのこと。いわゆるBLというやつですね。折口博士が短歌や詩を発表するときの別名、釈迢空(シャクチョウクウ)という名前は、藤無染がつけたという説もあります[丸谷:2011]。

折口博士は生涯23の校歌の作詞をしていますが、うち5つが石川県下の校歌で抜きん出ています。ここまで、特に石川県に何の縁もゆかりもなさそうな博士ですが、、、
じつは、國學院大で教鞭をとっていた頃の教え子であった藤井春洋(フジイハルミ)という国文学者が、石川県羽咋郡一ノ宮村(現・石川県羽咋市)出身、旧制金沢一中の卒業生にして、博士の実質の配偶者であったのだそうです。昭和19年(1944年)に春洋が硫黄島への赴任をすることになったときに養子縁組で博士の子どもとなります。みなさまご存知のとおり、昭和20年(1945年)に硫黄島は玉砕しますので、38歳で春洋は帰らぬ人となりました。愛するわが子を亡くした博士の悲嘆は深く、昭和24年(1949年)に春洋の実家近くに墓が建てられ、その後、昭和28年(1953年)に病死した折口信夫博士もともに同じ羽咋市一ノ宮町にあるお墓に眠っておられます。

今月末に無料化される「のと里山海道」の柳田ICすぐそば、縁結びの神さまでしられる能登一の宮気多大社」から徒歩10分ほどのところに折口父子のお墓がありますので、春になったら無料の能登有料道路を使ってぜひ足をお運びください。

以上、穴水町シリーズ、5回にもわたって能登について語り尽くしました。穴水町出身でアマ横綱から角界入りする遠藤くんも、無事日大を卒業して四股名「遠藤」として春場所幕下付出しデビューです。目標は、同じく日大出身で横綱になった輪島関だそうです。輪島はてっきり輪島出身だと思ってたら七尾出身でした。。。とにかくガンバレ!
…と、なんだかんだ結局、校歌についても関係あるのかないのか分からず締まったような締まらぬような、でも最終的にはやっぱり相撲の話題で締めくくる穴水町シリーズなのでした。次回より通常営業にもどります。
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折口博士父子の墓への案内板(上)
気多大社のハートフルな絵馬(中)
看板が「能登有料道路」から「のと里山海道」に変わった!(下)
[参考文献:『折口信夫全集 第31巻』中央公論社(1957年)、『袖のボタン』丸谷才一 朝日新聞出版(2011年)、ウィキペディア(折口信夫)
[発見日:平成24年11月4日]