【福岡市】瓦町

f:id:cho0808:20200922203225j:plain:h400:left【消滅した年】昭和41年(1966年)、昭和44年(1969年)
【現在の町名】祇園町上川端町
【感想・雑記】突然ですが、前回の上鷹匠町からの"鷹"つながりで福岡市の旧町名紹介の番外編です。今回は写真多めでいきますよん。
ただ今"鷹の祭典"開催中のホークスは、若干足踏みしつつも好調首位をひた走っておりますが、その"鷹"のつながりだけではありません!今回ご紹介する「瓦町」の現町名でもある「祇園町」は、かつて黒田長政公が鷹匠を居住させた町で、「鷹匠町」または「鷹師町」と呼ばれていたそうなのです。それが元禄時代以降、いつのまにか櫛田神社の祭神である祇園大神にちなんだ「祇園町」となり、さらに昭和41年の住居表示実施により、周辺の町の飲み込んで巨大化しました。

さてさて「瓦町」に話を戻しましょう。「瓦町」はいわゆる「博多」の旧町名です。福岡市は、古代「続日本紀」の頃(平安時代以前)からの古い歴史を持つ商人の町「博多部」と、江戸時代に黒田家が築いた比較的新しい城下町「福岡部」に分かれます。中洲をはさんで、那珂川の東側の「博多」と西側の「福岡」に分かれているといってもよいでしょう。ちなみに博多の旧町名をご紹介するのは、平成25年(2013年)にご紹介した「櫛田前町」以来7年ぶりですが、その節にご紹介した2町はどちらもインチキ紹介でしたので、今回の瓦町は、ようやく本物の旧町名の遺産です。実は7年前に発見していましたが、令和の今年も無事残っていました。7年前のまだ若かりし頃に博多の街をわりとすみずみまでねり歩きましたが、旧町名の遺産は、おそらくこの「瓦町」のみではないかと思われます。(金沢とちがって博多の街は本当に見つからないのです!)

瓦町は「かわらまち」と読みます。場所はキャナルシティ櫛田神社にもほど近い、はかた駅前通りと国体道路の交差点の付近です。福岡の人には、おじいちゃん世代には渕上デパート、お父さん・お兄さん世代にはユニードの裏通りというと"とおり"がよいかもしれません。こちら現在は、飲食店が立ち並んでおり、そのまま「瓦町通り」という名前が付けられております。

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飲食店の立ち並ぶ瓦町通り(旧瓦町界隈)(上)
ユニード跡地の祇園博多センタープレイス(中)
瓦町通りで見つけた「淵上」電柱番号札(下)

町名の由来は、黒田長政公が筑前入りしたとき、旧領の播磨から連れてきた瓦職人を町内に居住させたことによります。現在も町内にある下照姫神社は吉祥天女社とも呼ばれ、筑前一之宮「住吉神社」の末社だそうです。その住吉神社の秋季例大祭で、お神輿が神社の間を往復したそうですが、その際に雅楽を演奏しながら渡ったという橋があって、その橋を管弦橋といい、その付近を管弦町といったのだそうです。ちなみに管弦町という名前は、路面電車(福博電車)の停留所の名前にも残っていたので、おじいちゃん世代にはおなじみの町名でしょう。なお現在、ちょうど瓦町の町内から管弦町停留所のあったあたりにかけて大工事の真っ最中、地下鉄七隈線博多駅延伸による新駅が作られております。当初は今年度開業の予定でしたが、平成28年(2016年)に起きた大陥没事故の影響で、2022年度に開業がのびてしまいました。もちろん新駅名は「瓦町駅」か「管弦町駅」よね!まさか「キャナルシティ駅」?よもや「お櫛田ゲートウェイ駅」とかにはならないよね???

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吉祥天女社「下照姫神社」(上)
工事中の七隈線新駅「瓦町駅」か「管弦町駅」?(下)

えー、最後にそのうちGotoしてほしい観光情報です。瓦町通りを国体道路側に出ると正面にみえるのが、老舗「かろのうろん」さんです。福岡のうどんといえば、こしのないつるつるのうどん、そして何といってもつゆにしみしみのごぼ天うどんがサイコーです。櫛田神社をお参りしたあとはぜひ寄るべし。なお、かろのうろんさんに隣接する年代物の祇園ビルは、福岡に現存するなかでは2番目に古いアパートだそうです。少年時代の小松政夫さんが住んでいたことで有名です。ということで本日は、小松の親分さんお得意の淀川長治さんのものまねでお別れしましょう。「それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」

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老舗「かろのうろん」さん(上)
福岡で2番目に古いアパートメント・祇園ビル(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 40 福岡県』角川書店(1988)、日高三朗・保坂晃孝『博多 旧町名歴史散歩』西日本新聞社(2014年)、井上精三『福岡町名散歩』葦書房(1983年)]
[発見日:平成25年某月某日(再発見日:令和2年9月22日)]

上鷹匠町

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【消滅した年】昭和39年(1964年)
【現在の町名】石引二丁目、石引四丁目
【感想・雑記】完全に味しめちゃった系のイージーモード炸裂の電柱番号札です。失われた当時のものを街角で探し出すことをモットーとするわれわれさがす会にとって、この番号札は手ぬk…もといイージーモードすぎて、ルール違反ではないかと言われております。電柱番号札のなかでも、デンリョク系は昭和○年と書かれているので、かろうじて失われた当時の電柱ではないかと推定できるのですが、今回ご紹介するデンデン系は、昭和○年の記載がないため年代の特定ができていないNGモノなわけです。ただ、この日本電信電話公社のロゴ入りは、今年で電電公社民営化から35年の月日が流れており、すでに時効ともなっているわけです。したがって、今回の掲載にあたっても当然時効が認められるというわけです。そこらへん、全く論理の破綻はないですね?よろしいですね?ちなみにNTTロゴのものはゴロゴロありますが、電電公社ロゴのものは、発見したこれ1本だったかと記憶しています。

さて、そんなデンデン系番号札でご紹介する町名は「上鷹匠町」です。いかにも城下町にありがち系の旧町名です。ウィキペディア情報によると、弘前、静岡、大垣、京都伏見、明石、姫路、和歌山、徳島、高知、大分中津などに現存するそうです。いずれも城下町ですよね。なおお江戸のご城下にも、新宿牛込地区に「市谷鷹匠町」が現存しております。これらはおそらくいずれも「たかじょうまち」と「まち」読みするものと思います。場所は、小立野台のメインストリート、石引大通りの裏通り、本多の森側の小路にあたります。大きなお屋敷が多く残る閑静な住宅地になっております。小立野・末の山の方から順に、上鷹匠町、中鷹匠町、下鷹匠町がありました。このうち下鷹匠町は、明治19年(1886年)に出羽町練兵場ができたときに練兵場に吸収されたそうです。金沢の郷土史家、森田柿園(平次)が著した「金沢古蹟志」にも「明治十九年陸軍營所の御用地と成り、この町地悉く絶えたり」とあります。しかしながら、なぜかことごとく絶えたはずの「下鷹匠町」の電柱番号札も見つけたわけで、電柱番号札の信ぴょう性や如何にといったことになってくるかもしれません。

鷹匠町の由来は、いわずもがな、古来より行われてきた鷹狩りにて、主君に仕えて鷹の飼育や訓練を行った専門職「鷹匠」にあります。金沢市のホームページによると、「寛文2年(1662年)から、藩の鷹匠組の邸地や鷹部屋がここにあったので、この名がついた」とのこと。藩政期は通称された地名だったのか、正式な町名となるのは明治4年(1871年)のことだそうです。鷹狩りは武士のたしなみとして愛好されましたが、武芸の鍛錬でもあり、野山を駆けまわり足腰の運動にもなることから現代のゴルフに近い感覚であったのかもしれません。さしずめ鷹匠はレッスンプロみたいなものでしょうか?ちなみに5代将軍徳川綱吉公が生類憐みの令で鷹狩りを禁止したのは有名なお話しですね。もっとも8代吉宗公の時代に復活してしまいますが。。。

実は、現代にも鷹匠がいて、伝統の放鷹術を今に伝えているのをごぞんじでしょうか。お花やお茶のようにいろいろな流派があったようですが、今では諏訪派などの限られた流派が残るのみです。今年は残念ながら中止になってしまいましたが、わたくし昨年の百万石まつりの盆正月イベントで、諏訪派の鷹匠の方々による放鷹術の実演公開があったので見にいってきました。勇猛な鷹が大空を舞う様子は迫力満点。ぜひ一度みてみると面白いと思います。

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閑静な鷹匠町界隈(上)
ことごとく絶えたはずなのになぜか残る「下鷹匠町線」の番号札(中)
現代の諏訪派鷹匠と鷹(百万石まつりの盆正月より)(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ、金沢市ホームページ、ウィキペディア
[発見日:令和元年5月5日]

田丸町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】本町一丁目、本町二丁目、昭和町
【感想・雑記】電柱3連チャンですが、今回のものは、全米震撼・・・は大げさにしても、全沢が震撼、いや、半沢くらいが震撼するような衝撃作death!おしまいじゃないdeath!
過去にご紹介したスチール製電柱番号札を見ていただくと分かるあの独自のフォント、我々さがす会金沢支部がホクデン体と勝手に名付けた例の書体とは、今回明らかに異なるヘタウマ手書き調のフォントであるところとか、丁寧に◯◯線まで明記されてるところなど、従来のものとは異なるかんじです。そしてそして。なんといっても一目で気づく強烈な違和感。そうなんです!「町」の字が、江戸や明治時代の古地図などで見かける、田と丁を縦並びに書く異体字になっているのです!番号札の製造年である昭和39年にはもう「町」の異体字は常用してないはず。だからこそ、これはきっと電柱番号札職人さんがこだわりぬいた至高の一品ではないかと思われます。本当にレアだからさ、電柱番号札による紹介になってもいいよね?いいよ・・・ね?

田丸町の読み方は「たまるまち」です。由来は藩政初期に田丸兵庫という加賀藩士が住んでいたところだそうです。田丸兵庫はのちに加賀藩支藩大聖寺藩に仕えたため、邸宅のあったあたりが田丸兵庫上ノ地町と呼ばれ、のちに略して田丸町と呼ばれるようになったそうです。ついでに田丸兵庫さんについて、もうちょっと調べてみましたが、結局よく分かりませんでした。三重県にあった田丸城主の田丸氏、田丸直昌の嫡男、直茂との情報も一部でございますが、出所は不明でした。

田丸町の場所は金沢駅前、旧町名の標柱は白髭神社の境内にあるので、ちょうど神社のあたりが田丸兵庫さんの邸宅付近だったのでしょう。白髭神社といえば、猿田彦命主祭神とするお寺で、琵琶湖中の大鳥居で有名な総本山が有名ですが、金沢の白髭神社素戔嗚尊主祭神としているのでちょっと別系統なのかな?
ところで、いわゆる神仏習合思想により白髭神社別当寺、つまり神社を管理するお寺として建立されたのが持明院です。神宮寺町にある蓮寺で有名なお寺ですね。なかでも天然記念物の妙連は、滋賀と金沢にしか生息しないという貴重な蓮で、毎年夏になると限定公開されています。ちなみに「別当寺」も「神宮寺」も同じく神仏習合思想にもとづいて、神社に付属して建てられたお寺のことをさす言葉なので、持明院神宮寺町の町名の由来に関係してるかと思いきや・・・ちがうっぽい。しかも由来も紹介済みっぽい。

そしてもうひとつ、田丸町といえば、旧町内にある大きなお寺が専光寺です。お寺の付近はかつて専光寺前という別の町だったそうですが、明治5年(1872年)に田丸町に編入しました。専光寺は浄土真宗のお寺で、加賀一向一揆で大きな勢力となったお寺とのこと。かつては石川郡吉藤村にあり、吉藤専光寺とも通称されているそうです。ん?吉藤村ってどこ?そんな村あったっけ?と言ってるそこのあなた、金沢市民のみなさまならよくごぞんじ、健民海浜プールのある専光寺町のあたりがかつての吉藤村です。そう。もうお分かりですね。吉藤村は専光寺があったためにのちに専光寺村と呼ばれるようになり、さらに専光寺町になったわけなのです。なお、専光寺町にある吉藤神社の名に、かつて吉藤村だった名残をとどめております。でもって、専光寺といえば「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」で石川県民にはおなじみの加賀千代女のお墓があるお寺としても有名です。
以上、神社、寺、神宮寺、寺、神社と、激レアさんの電柱番号札のご紹介を忘れるくらいに、神仏ぐるぐる習合しまくりな回になりました。ではではまた。

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神宮寺にある白髭山持明院(上)
旧田丸町にある護方山専光寺(中)
専光寺町にある吉藤神社(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、石川県神社庁HP、ウィキペディアなど]
[発見日:平成24年10月27日]

木揚場

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【消滅した年】昭和41年(1966年)
【現在の町名】元菊町
【感想・雑記】金沢のデンリョク、電柱番号札でのご紹介が続いてしまい申し訳ありません。しかも若干読みづらいときてる。。。えーっと、今回ご紹介するのは「木揚場」です。「きあげば」と読みます。場所は六枚町交差点から金石方面に向かう金石街道の側道、かつて「古道」と呼ばれた道の途中の脇道を入ったあたりです。電柱番号札にも「木揚場分」とあるように、電柱の幹線(本線)からそれた脇道の分線(支線)になっています。とはいえ、昭和34年と書いてあるようにスチール製番号札のなかではけっこう古いやつなので、どうぞ笑って許してね。

木揚場の町名の由来ですが、読んで字のごとし、木を揚げる場所、です。かつては三社揚場とも呼ばれたそうです。江戸時代から続いた由緒ある町名ですが、昭和41年に消滅してしまいました。
江戸時代、築城や城下の普請にも重要な物資であった木材を宮腰(現・金石)の港から木曳川(きびきがわ)をのぼって城下に運び、市中を廻る用水を使って運搬されました。なかでも大野庄用水は、大事な荷を運ぶ川ということで「御荷川=鬼川」と呼ばれたよという話は、以前にもご紹介しましたね。
木揚場の町域のすぐ近くには大野庄用水と鞍月用水の合流地点があり、ここから木曳川に流れていきます。この場所には「古道木揚場」と書かれた標柱が立っていました。おそらくこのあたりで運んできた木材を荷揚げしていたのでしょう。

金沢市が設置した案内板などによりますと、大野庄用水は、完成年不明ながら金沢で最も古い用水で、富永佐太郎という人によって完成したと伝えられています。犀川から取水し、長町武家屋敷の土塀沿いを流れ、木曳川から日本海に注ぐ総延長10.2kmの用水だそうですが、その大半は木曳川で、大野庄用水としては古道木揚場で鞍月用水と合流するまでの2.2km、というのが正しいのではないかと思われます。

ところで、大野庄用水を語る上で「三社どんど」を忘れてはなりません。中央郵便局近くにある水門のような施設が「三社どんど」です。元禄6年(1693年)の記録が残されているというからけっこう古い史跡のようです。ちなみに、どんどは水閘(すいこう)のことで、水の流れを調節する水門だそうです。船の水位を合わせるために水をためていたとのこと。なお、「三社どんど」はかつて「三社どどめき」とも呼ばれていたみたいです。以前「下百々女木町」でご紹介したとおり、堰を落ちる水の轟音を表していたのでしょう。
そういえば、船の水位を調整する水閘、いわば船のエレベーターは、お隣り富山の、世界一のスタバで有名な富岩運河環水公園から岩瀬浜に向けて出航している富岩水上ラインに乗ると体験できますよ。「中島閘門」というパナマ運河式の閘門(こうもん)で、国の重要文化財に指定されています。

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大野庄用水と鞍月用水の合流する古道木揚場(上)
三社どんど(中)
富岩運河環水公園と富岩水上ライン(下)
[参考文献:金沢市の設置案内板など]
[発見日:令和2年3月15日]

御仲間町

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【消滅した年】大半は昭和41年(1966年)、一部は昭和50年(1975年)
【現在の町名】元町二丁目、森山二丁目、小橋町
【感想・雑記】お盆休み、いかがおすごしですか?ふるさとに帰りたくても帰れず、日常と変わらぬお休みを過ごしている方も大勢いることでしょう。ふるさとで過ごしている私も、実家に帰るのはがまんです。
今、お盆休みといいましたが、実は金沢の旧市街地のお盆は先月7月で終わっています。ただし、わたしのふるさと金石町は、旧市街地ではないので8月のお盆です。
もともとお盆は太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われたものですが、明治に入って太陽暦が採用されると、農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦の8月15日のいわゆる「月遅れ盆」とする地域が多くなったそうです。しかし、東京、横浜などの大都市部や東北・北陸の農繁期に重ならない一部の地域では、新暦の7月15日をお盆としているそうです。実は、こちらの記事で過去にもご紹介した情報ですが、あくまでもウィキ先生による情報です。

さて、お盆の風習と密接に関連する風習として、以前「七夕」をご紹介したことがありましたが、「お中元」もお盆に関連する風習だそうです。
お中元とは、初夏の頃、日ごろお世話になった人に贈り物をする風習ですが、最近はあまり見られなくなってるようです。一般には、7月初旬から7月15日頃までに贈る地域と、7月15日から8月15日頃までに贈る地域があるようです。ほら!7月15日ってことで、お盆との関連が見えてきました。といってもお中元は、中国の道教に由来する行事だそうです。仏教行事っぽいお盆(盂蘭盆会)との習合ってことでしょうかね。中元というくらいなので上元と下元もあるそうです。岐阜県下呂市下呂温泉の、上呂中呂下呂があるのと同じ雰囲気ですね。(無理やり地名ネタに関連させてる?)

そろそろ閑話休題。今回ご紹介する「御仲間町」は「おちゅうげんまち」と読みます。「おなかままち」ではありませんが、お中元とも全く関係ありません。
御仲間(おちゅうげん)とは、武士である「足軽」と、非武士階級の「小物」の中間に位置する身分の、いわゆる「武家奉公人」の身分だそうです。軽輩者と呼ばれる最下級の武士といってもよいかもしれません。元禄の頃は「御馬屋町」と呼ばれ、馬の世話をする御仲間の組地があったことから、のちに御仲間町と呼ばれるようになったとのことです。場所は、森山北交差点のあたりです。昭和40年と書かれた御仲間町の電柱番号札、かろうじて1本だけ残っていました。電柱番号札での旧町名ご紹介は多少心苦しいところではございますが、おそらくこの1本しか残っていません。電柱番号札とはいえたいへん貴重なものだと認識しております。

ところで、森山北交差点、森山の中心といってもいい大きな交差点なのに森山交差点ではなく、森山北交差点です。森山交差点は、その南のコンビニ前にあるとても小さな交差点です。それはなぜか。実は彦三大橋から山の上交差点までのびる道路は、昭和63年(1988年)に開通した比較的新しい計画道路(森山・有松線)です。わたしの子どもの頃はまだなかった道路なんですよね。そのため、本来大きな道路で区切られることの多い街区は、この森山・有松線では区切られていません。ゆえに小橋町は、森山・有松線をまたぐ形になっており、東山三丁目との境界は、浅野川にかかる小橋から続くせまい道路となっています。そりゃ小橋町っていうくらいだから、小橋は小橋町にないとね。
以上、興味のない方には全くどうでもよい豆知識でした・・・。

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旧御仲間町界隈の森山北交差点
[参考文献:ウィキペディアなど]
[発見日:平成27年11月14日]

木倉町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【復活した年】平成15年(2003年)
【現在の町名】木倉町、片町二丁目
【感想・雑記】本日、令和2年3月9日は、この日記をつけはじめてちょうど8年目の記念日です。といっても、当初のせっせとした感じはどこへやら、ここ最近は年に数回の更新ペースでゆったりと時を刻んでおります。

さてさて、8年前、一番最初にご紹介したのが、金沢ではじめて旧町名復活した「主計町」でした。ですので、満8年目の今回、同じく復活した旧町名である「木倉町」をご紹介してまいりたいと思います。

「木倉町」は「きぐらまち」と読みます。昭和40年(1965年)、片町二丁目となって消滅しましたが、平成15年(2003年)に華々しく復活を遂げました。
木倉町といえば金沢の夜の顔。居酒屋の並ぶ小路です。でも3月現在、未知のウィルスの猛威によるさまざまな自粛ムードのなか、居酒屋は大きな被害を受けているときいています。一日も早く、災いが去って、また平穏な日々がもどってきてほしいとせつにねがってやみません。

木倉町の由来は、「藩政の初めころ、藩の材木蔵があったのでこの名がついた。もとは木町、また一時期、西側半分は出大工町とも呼ばれていた。本町の一つ」(金沢市のホームページより)だそうです。藩政初期から続くかなり古い町名のようですね。本町というのは町の中でも最も格付けの高い町で、地子銀と呼ばれる税金が免除された町だそうです。

江戸時代は木材の流通や輸送が経済活動のなかでも重要な役割を果たしていました。金沢では、木倉町のほか、材木町木町、木揚場などなど、木材に関する町名が見られます。材木は、宮腰の湊(現在の金石港)から木曳川、そのあと大野庄用水に入って城下に運ばれたのち、木揚場、木倉町などで荷揚げされて、材木蔵に貯えられたと考えられます。ちなみに大野庄用水は、木材などの大切な荷物=御荷を運ぶ川、ということで御荷川と呼ばれ、鬼川と当て字されたりしています。過去のこちらの日記などにもこのことを書いていますのでご参考まで。

以上、木倉町のご紹介でした、おしまい。…と終わらせる前にあとひとつだけ。今回ご紹介した旧町名の遺産、どこかで見たことがありませんか?緑のうぐいすもち型のアレ、長町校下でしか見つからないという例のアレです。大工町でご紹介しましたね。謎の組織「青産研」てなんぞや、という話なのですが、どうやら、「石川県青年産業研究協議会」という団体らしい、ということが分かってきましたが、これ以上のことは分かりませんでした。引き続き調査を継続いたしますので、本日はこのへんでご勘弁を。では、9年目もひとつよろしくおねがいいたします。

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昼の木倉町通り(外出自粛につき大薮小路の回の使い回し写真)(上)
鬼川の聖天(養智院)(裏古寺町の使い回し写真)(下)
[参考文献:いいね金沢(金沢市ホームページ)]
[発見日:平成24年4月30日]

七宝町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)、昭和45年(1970年)
【現在の町名】玉川町、武蔵町
【感想・雑記】七宝町(しっぽうまち)。7つの宝といえば、集英社系の某神龍の玉を集める鳥山作品か?はたまた小学館系の某犬妖怪の子狐ちゃんのるーみっく作品か?
由来がよく分からないので、角川書店系の某地名大辞典を読みましたが、「下伝馬町の一部を七宝小路とし明治4年の新定区画には町名が見えるが、それ以前の町名の起源については不詳」ということで、7つの宝の意味はよくわかってないようです。

まあそんなわけで、七宝町の情報はほとんどないため、そろそろおひらき、なのですが、、、なんと!平成16年、この旧町名が「復活」していたのです!!
といっても金沢の旧町名復活、ではなくて、交差点の名前として復活したということなのです。もとは現町名の「玉川町」交差点だったのが「七宝町」交差点に生まれ変わったのでした。一体何があったのでしょう?
実はこの年、金沢市立玉川図書館前の新しい道路が開通するのと同時に、玉川町商店街と交差する交差点の名前が「玉川町」交差点になったために、それまでの玉川町交差点が七宝町交差点になった、ということなのです。旧町名時代からの交差点が、町名消滅後も残っていることはよくありますが、現町名を冠する交差点が旧町名に変わる例はあまり見たことがありません。全国的にはどうなのでしょう???
というわけで、今回は情報量少なめの七宝町のご紹介でした。

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七宝町交差点(旧玉川町交差点)(上)
"新しい"玉川町交差点(下)
[参考文献:『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)]
[発見日:平成26年5月4日]