観音町一丁目

f:id:cho0808:20190502134908j:plain:h300:left【消滅した年】昭和41年(1966年)
【復活した年】令和元年(2019年)
【現在の町名】東山一丁目→観音町一丁目
【感想・雑記】今回ご紹介するのは、本年5月2日に開催した令和最初の旧町名探し活動で発見した町名にして、令和の訪れとともにみごとに復活した観音町一丁目でございます。といっても、当日記開始2日目に、一丁目と二丁目 を出血大サービスで同時に紹介するという暴挙によって実はすでにご紹介済みなのです。暴挙をあとで激しく後悔し、昨年、二丁目のみを再度紹介したのち、今回は、続いて一丁目のみを再度紹介するに至ったわけです。なお、観音町は三丁目もご紹介済みなので、通算4回目の観音町の紹介になるわけです。過去3回も観音町をご紹介したにもかかわらず、どうしても1つだけいい忘れた大事なお話しがあるので、今回はそのお話しをしたかったのです。ということで観音町の最終回、しばしの間お付き合いください。

まずは簡単に復習です。観音町一丁目は昭和41年(1966年)に東山一丁目となって消滅したのですが、令和初日の令和元年5月1日に観音町二丁目、観音町三丁目とともに復活を遂げました。ただし観音町三丁目だけは、行政側の見落としとやらで住居表示されずに残った4世帯のみの一画があったので、厳密には復活ともいえないわけですが、東山一丁目になっていた大半の部分も観音町三丁目として領土回復、まさに令和のレコンキスタなわけであります。
今回発見した観音町一丁目は、見てお分かりの通りぴかぴかで、観音町が消滅する以前の昔の名残などではなく、復活後に新調された表札として発見いたしました。おそらく5月1日に復活を祝い、誇り高く掲げられた表札であると思われます!
(なお、かつての観音町消滅当時の名残を残すものは、さきほどの一丁目と二丁目のリンクをご参照のこと)

ところで、夏といえばとうもろこし、観音町といえばとうもろこし、です。観音院の四万六千日の縁日が旧暦7月9日に開催されますが、今年は、今週8月9日にとりおこなわれます。なお、とうもろこしでおなじみの四万六千日についてご存知ない方、詳しくは過去のこちらの日記をご覧ください。この時期、金沢には四万六千日を知らせる張り紙が町中いたるところで見かけるので行ったことのない人でも、「あぁ、あの張り紙ね!」って感じで金沢の人なら知らない人がいない張り紙となっているわけですが、、、実はこの四万六千日の張り紙、昨年までと何か違うのですがお気づきでしょうか?次の、3年前の張り紙(1枚目)と今年の張り紙(2枚目)の2つの写真をよーく見比べてみましょう~。どこがちがうかな?
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そうなのです!「東山一丁目」の箇所が「観音町」になっているのです!四万六千日の張り紙は版木を刷ったものなのですが、昭和41年の観音町消滅以来、「観音町」の箇所は墨を付けずに刷って、手書きで東山一丁目と書き入れていたらしいのですが、半世紀ぶりに「観音町」の箇所に墨を入れて刷ることができたのだそうですよ。手書きがなくなった分、作業も楽になったとか。まさに働き方改革!よかったですねえ~。

さてさて、今回、私が言い残した話題というのは、この観音院の話題ではなく、観音町三丁目にある「寿経寺」というお寺に祀られた七稲地蔵さまのお話しなのです。
七稲地蔵さまは、文字どおり7体のお地蔵さまで、安政の泣き一揆の首謀者の7人をお祀りしたお地蔵さまなのです。普段は、地蔵堂の格子戸が閉まっていますが、毎年8月26日の祭礼の日には戸が開けられて法要が行われるようです。
安政の泣き一揆は、安政5年(1858年)に起こった地震と長雨による凶作によって米の値段が跳ね上がり、飢えた民衆2千人が7月11日の四万六千日の後参りの日に卯辰山にのぼって「ひもじいわいやー」「ひだるいわいやー」「米くれまいやー」と泣きながら金沢城に向かって叫んだとされる一揆です。この一揆の首謀者のうち5人が斬首のうえさらし首、うち2人が牢死したそうのですが、50年後の明治41年(1908年)に、7人のお墓が寿経寺に寄進されて、現在に至る、ということでした。(もっと詳しく知りたい方はGoogle先生にきいてみよう!)

・・・以上が、観音町紹介の回のラストをかざる七稲地蔵のお話しでした。今年も梅雨明けまでは梅雨寒の日が続いて一時はどうなることかと思いましたが、連日の猛暑、好天でお米もすくすく育ってくれていることでしょう。そういえば、観音町一丁目には金沢でも最も古いお米屋さんといわれる経田屋米穀店さんがありましたっけ。一丁目のご紹介しないまま終わるとこでした。お米屋さんといえば、米どころ金沢の新しいお米「ひゃくまん穀」も好調のようですね。むちゃくちゃおいしいからぜひ県外の方も食べていただきたいものです。ということで、令和の御代の五穀豊穣を祈りつつ、本日はここまでにしたいと思います。

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去年の四万六千日の様子(上)
寿経寺・七稲地蔵の地蔵堂(中)
観音町一丁目にある経田屋米穀店(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見、いいね金沢(金沢市公式ホームページ)北陸中日新聞 2019/6/30朝刊]
[発見日:令和元年5月2日]

山田屋小路二番丁

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【消滅した年】昭和39年(1964年)?
【現在の町名】幸町
【感想・雑記】この日記を読んでくださっているみなさま、お久しぶりです。この春、はてなダイアリーというブログサービスが終了し、同じ会社のはてなブログというサービスに統合されることになりまして。実ははてなブログへの引っ越しは完了し、すでに記事も1本更新していたのですが、はてなダイアリーから自動でジャンプしてくれるリダイレクトという設定を忘れたまま、ダイアリーの記事が一切更新もなにもできなくなってしまい、今日に至るわけですが、つい先日、はてなの方が自動でリダイレクト設定をしてくれたおかげで晴れて公開できるようになりました!
コメントいただいていた方、大変申し訳ございませんでした。遅ればせながらようやくご返信させていただきました。

さてさて、そんなわけで、はてなダイアリーと同じように、この春惜しまれつつ幕を閉じたのが、金沢市立新竪町小学校と金沢市立菊川町小学校です。そしてはてなブログと同じように、金沢市立犀桜小学校に統合されて新たなスタートを切りました。
今回は、ブログのリニューアル、新たなスタートということで、同じ境遇にある犀桜校下(正しくは新竪町校下ですね)の旧町名から、山田屋小路二番丁をご紹介したいと思います。

新竪町校下といえば、金沢の牛込地区とわたしが名付けた、古くからの町名が数多く残存する地区です。牛込地区とは東京都新宿区、かつては東京市牛込區だったエリアです。昭和39年(1964年)前後からはじまった住居表示制度によって大量に町名が消滅するなかで、旧牛込区の一帯は住居表示されずに昔の町名が残りました。同じように、新竪町校下のなかでも本多通りをはさんだ北西側の一帯も、牛込地区のように住居表示が実施されず、藩政期から続く町名が数多く残っております。
新竪町(三丁目のみ)枝町川岸町、中川除町、里見町、竪町、鱗町、水溜町、杉浦町、茨木町、池田町、十三間町、油車、下本多町(五番丁、六番丁)などなど。しかしながら、今回ご紹介する山田屋小路は、本多通りの南西側に位置していたため、幸町となって昭和39年に消滅してしまいました。

山田屋小路は「やまだやしょうじ」と読みます。そのまんまです。一風変わった町名は、藩政期から数代にわたって町内に住んでいた「山田屋」という魚屋さんに由来するそうです。おそらく通りの通称として長い間呼ばれていたものと思いますが、正式に町名となったのは明治5年(1872年)です。2つの通り(筋)があり、それぞれ一番丁と二番丁となりました。よっぽど大きな魚屋だったんでしょうね。
…とここまで、消滅した昭和39年よりも後の昭和42年と書かれたデンリョク系電柱番号札をそしらぬ顔で掲載したうえに、山田屋小路を旧町名だと断定して説明をしてきました。ところが実は、よく分からない問題が起こっていたのです。

謎その1。金沢市の公式ホームページ、「いいね金沢」にはなぜか山田屋小路一番丁は旧町名としてリストアップされているのに、山田屋小路二番丁はリストアップされていません。二番丁は旧町名じゃないってこと?

謎その2。石川県版の『角川日本地名大辞典』にも、山田屋小路二番丁は世帯数ゼロの現役町名として記述があります。この辞典は1981年の出版なので、少なくとも1981年までは、二番丁だけが存在していたことになるのです。そこでわたしは図書館で、山田屋小路が消滅したはずの1964年頃から、現存していたはずの1980年頃に至るまでの住宅地図を、あるだけ手当たり次第探してみたのですが、、、やはりどこにも見当たりません。もちろん、現在グーグルマップをみても、山田屋小路二番丁は見つかりません。はてさて地図上見つからない山田屋小路二番丁は、本当に消滅していないのでしょうか?新竪町校下で旧町名が多数残っている本多通りの北西側、山田屋小路二番丁の延長線上からいえば、新竪町小学校(今は犀桜小学校の仮校舎として使っています)の校舎かグラウンドの下あたりにひっそり残っているのかもしれません。徳川埋蔵金のように、掘れば山田屋小路二番丁が出てくるのかしら?
ともかくまあ、私には見えるという霊感の強い方がいらっしゃればご一報いただけますと幸いです。ではではまた。

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山田屋小路二番丁の小路(上)
山田屋小路二番丁が眠るはずの金沢市立犀桜小学校仮校舎(新竪町小学校校舎)(中)
山田屋小路が見える方はご一報ください(下)
[発見日:平成30年7月10日]

金石下本町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活した年】平成30年(2018年)
【現在の町名】金石下本町(復活までは金石西三丁目、金石西四丁目)
【感想・雑記】はてなダイアリーのサービス終了に伴いリニューアルオープンです。本日がこのブログ開設7年目の記念すべき日でございます。引き続きご愛顧のほどよろしくおねがいいたします。

さてさて、今回が2019年最初の投稿です。読者のみなさまの興奮もすっかり冷めちゃったかもしれない旧町名復活ですが、そんな金石下本町(かないわしもほんまち)のご紹介です。金沢市金石地区は、金沢市の中心から約5キロほど離れた郊外にある小さな港町です。金石は、「かねいし」ではなく「かないわ」と読みます。かつては宮腰(みやのこし)とよばれていました。昭和18年(1943年)に金沢市になりましたが、それまでは石川県石川郡金石町という別の市町村でした。

隣町の大野町とはよくも悪くもライバル関係にあります。慶応2年(1866年)に宮腰町と大野町の合併話が出たときに、固く結ばれた友情を意味する「金石(きんせき)の交わり」から金石町と付けられましたが、すぐに合併は解消されてしまい、かつての宮腰町だけを称して金石町とよぶようになったとさ。

以上が金石町の簡単なご紹介です。下本町は、江戸期から続く古い町で、本町の下に連なり店屋も多く賑わった町だということですが、金石町が金沢市に併合されたときに、「金石下本町」と名前を変えて残っていましたが、ついに昭和43年(1968年)に消滅してしまいました。ところがです!ご存知のとおり、昨年の11月、見事な復活をとげました。当然ながらカムバック賞も満場一致で決まったそうです。

今回撮られた写真は、ご覧になると分かるように往年のものではなく、復活後の写真です。怪物と呼ばれたかつての面影はありませんが、放つオーラは格のちがいを感じさせます。今シーズンは開幕前から右肩のアクシデントに見舞われて心配ではありますが、がんばって活躍してくれると信じています!

最後のほうは、金石下本町とまったく関係のない話しになった気がしないでもないですが、まあお気になさらず。ところで、下本町の旧町名標柱の隣には「銭屋五兵衛旧宅跡」の標柱も並んでいます。この銭屋五兵衛という人物、金石、いや金沢の歴史を語るのに忘れてはならない方なのであります。今回は、ここで時間切れとなりましたので、また近く、別の機会に銭屋五兵衛さんについてはお話しさしあげたいと思います。以上、ご静聴ありがとうございました。まだまだ連載は続くよん。

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金石下本町の標柱と並び立つ「銭屋五兵衛旧宅跡」の碑(上)
銭屋五兵衛のお墓のある本龍寺(下)
[発見日:平成30年11月3日]

金石通町

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【消滅した年】昭和43年(1968年)
【復活した年】平成30年(2018年)
【現在の町名】3日前から金石通町(それまでは金石西三丁目、金石西四丁目)
【感想・雑記】平成最後の平成30年11月1日、ついに9年ぶりに旧町名が復活しました!!しかも金石通町、金石下本町、金石味噌屋町の3町同時。今回ご紹介するのはそのうちのひとつ、「金石通町(かないわとおりまち)」です。したがって、今回ご紹介するのは、正確には旧町名ではなく、生まれたてほやほやの新町名となります。そして昨日11月3日、平成最後の文化の日に、金石通町にある宮腰緑地にて、「旧」の文字を埋めた旧町名標柱の除幕式が開催されるということで、ひさびさに実家帰って見に行ってまいりました。

わたくしのふるさと金石町。金石通町は、町のメインストリートといっても過言ではないでしょう。昭和18年(1943年)の金沢市編入前、石川郡金石町だった時代の金石町役場は、この金石通町(当時は金石町字通町)にありました。また、金石通町には通町商店街があります。小学生のとき、先生が「かないわ銀座」とよんでかるく小馬鹿にしてましたが、地方商店街の宿命か、衰退ぶりは想像以上です。当時かよった本屋も文具屋もおもちゃ屋もなくなってしまいました。なお、江戸時代には上通町と下通町にわかれていて大店もあり、人の往来も多く、大変にぎわった町だったとか。
ちなみに、かつての金石町役場は、金沢市役所の支所、金石市民センターおよび金石町公民館となっており、現在も町の中心施設であります。旧町名の復活記念式典ももちろんここで開催されましたよ。

ところで、今回ご紹介したのはかつての旧町名当時のものかどうかの判別が難しい「デンデン系」の電柱番号札です。5年前に見つけたこの番号札のあたりを、本日あらためてくまなく探してみましたが、当時の表札を掲げるお宅はおろか、デンリョク系の電柱番号札は全く見つかりません。NTTロゴの「通町」電池番号札はたくさん見つかります。しかしながら、ご紹介した電電公社のロゴが書かれた手書き風の番号札も見つかりませんでした。すでにおそらく全て撤去されてしまったのでしょう。したがってもう見ることができない電電公社ロゴ入りの手書き風「通町」番号札である、という希少価値をアピールしつつ、旧町名復活のお祝いの言葉にかえさせていただきます。本当におめでとうございました!

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宮腰緑地・除幕式の様子(上)
「旧」の文字が埋まった標柱(中)
金石市民センター(旧金石町役場)(下)
[発見日:平成25年9月29日]

石屋小路

f:id:cho0808:20161203112842j:plain:left:h400【消滅した年】昭和45年(1970年)
【現在の町名】武蔵町
【感想・雑記】武蔵スタジオ通り。演出の街だから武蔵スタジオ通りらしいのですが、意味はよくわかりません。昔このあたりにライブスタジオがあったのが由来との説があるようです(出典:N氏のぶらり散歩日記、トリップアドバイザーなど)。そもそも武蔵スタジオ通りと呼ばれるようになったのはいつ頃でしょうか。わりと最近な気もするのですが、なぜか由来がわからない。。。

さて、今回ご紹介する石屋小路(いしやしょうじ)は、まさにこの武蔵スタジオ通りの町ということです。場所は金沢の繁華街、武蔵ヶ辻にある「めいてつ・エムザ」というデパート脇の小路です。「武蔵スタジオ通り」と大きくモニュメントに書いてあるのですぐにわかりますよ。江戸初期、この小路に藩の名高い石工が住んでいたのが由来だそうです。江戸時代の地図にも「石屋小路」の名前が見られるのですが、意外にも正式な町名となったのは明治4年(1871年)なのだそうです。それまでは安江町横町という町名だったのですが、通り名称がそのまま町名に採用されたといったところでしょうか。それにしても、つい最近誕生した武蔵スタジオ通りの由来がはっきりしないのとは対照的ですよね。

ところで、金沢の二大老舗百貨店(?)「めいてつ・エムザ」の正式名称は、「金沢名鉄丸越百貨店」です。昔から丸越(名鉄丸越)とよばれて親しまれてきましたが、平成14年(2002年)の、隣接するスカイビルと一体化する大規模改装とともに、現在の「めいてつ・エムザ」の愛称がつけられました。
金沢名鉄丸越百貨店は、昭和5年(1930年)、製茶業を営んでいた実業家(のち政治家)の林屋亀次郎さんが建設したビルに誘致した三越金沢店がはじまりだそうですが、わずか5年ほどで撤退し、跡地に「丸越百貨店」を開業したそうです。ちなみに場所は現在地でなく、武蔵ヶ辻交差点の対面の「かなざわはこまち」のある場所に建っていたらしいです。ダイエーのあったとこ、といったほうが地元のみなさんにはよく分かるかもしれませんね。

では、現在のエムザの場所には何があったのでしょうか。実は、ここには「住吉市場」とよばれた青果市場がありました。わたしの親世代の方ならごぞんじなのかなー。ここ数年、海鮮丼を求める観光客でごったがえす「近江町市場」は昔からの魚市場ですが、その向かいに大きな青果市場があったということです。
その後、大規模再開発事業とともに、住吉市場が現在の中央卸売市場(西念町)に移り、昭和48年(1973年)にはスカイビルが建設されて、そのとなりに丸越百貨店が移転して名鉄丸越百貨店となり、めいてつ・エムザとなって現在に至ります。ちなみに、エムザの3階テラスに出て螺旋階段を登ったところには、今も武蔵住吉神社が鎮座しているのですが、、、金沢市民でもごぞんじない方が多いのではないでしょうか。なお、住吉市場の住民の方たちは住吉町と通称し、石屋小路と住吉町の両方の表札を掲げるお宅もあったとかなかったとか。(出典:『金沢百年町名を辿る』読売新聞金沢局(1990))

最後に、とても残念なお知らせです。今回ご紹介した「金澤市石屋小路」の旧町名表札と古いお宅ですが、たび重なる再開発を乗り越えて平成30年の今日まで残り続けてきたのですが、最近取り壊されて、コインパーキングに生まれ変わってしまいました。。。

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武蔵スタジオ通り(かつての石屋小路)(上)
住吉市場跡地の標柱(中)
めいてつ・エムザ4階に鎮座まします武蔵住吉神社(下)
[参考文献:『金沢百年町名を辿る』読売新聞金沢局(1990)、『角川日本地名大辞典 17 石川県』角川書店(1982)、ウィキペディア、N氏のぶらり散歩日記、トリップアドバイザー]
[発見日:平成28年12月3日]

岩根町

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【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目
【感想・雑記】この週末、金沢では百万石まつりが開催されました。今年の百万石パレードはお天気にも恵まれてたいへんなにぎわいでした。羽田美智子さんのお松の方も、高橋克典さんの利家公も、ミーハーながら、きれいだなあカッコイイなあと思いながら拝見した次第でございます。
ところでわたくし、先週の金曜(6/1)は早く帰ることができたので、加賀友禅灯籠流しも見物することができました!加賀友禅灯籠流しは、友禅流しで有名な浅野川に灯籠を浮かべて、友禅職人の供養と友禅の発展を願う行事だそうです。今年は、半数もの灯籠が燃えてしまうという事件が発生したのでご存知のかたも多いかもしれません。
そういうわけで、いつもの無理やりなこじつけに従いまして、本日は、金沢を代表する川、浅野川沿いの町ということで岩根町(いわねまち)をとりあげたいと思っております。

岩根町は、灯籠流しの会場から少し離れていますが、彦三大橋と昌永橋・中島大橋との間にあった川沿いの町です。昭和40年の住居表示実施により、瓢箪町、笠市町、彦三町一丁目の一部となりました。町名の由来は、江戸初期、越前の牢人(浪人)で馬術の名人であった岩根十蔵がこの地に馬場を開いたことによるもので、岩根馬場と呼ばれました。そののち馬場は、川の対岸、現在の馬場小学校近くにあった関助馬場に移りますが、岩根馬場の跡地が町地となり、江戸中期ごろには、岩根町といわれるようになったとのことです。江戸時代の岩根町は、もともと川岸の10数軒だけの小さな町でしたが、明治5年(1872年)に、おとなりの勘解由町(かげゆまち)や亀淵町(がめぶちまち)などと合併して、戸数60軒ほどの大きな(新)岩根町になりました。なお、当時の町の規模としては勘解由町のほうが大きかったそうなので、ひょっとしたら、今回ご紹介する町が勘解由町になってたかもしれません。これを見つけたのも元は勘解由町だった場所ですし。これもまた運命のいたずら、ですよね。そして、いつの時代も、町は生まれそして消えてゆくものなのでしょう。それにしても、元々の岩根町と勘解由町とで、町の雰囲気、というか気どっていえば表情?みたいなのが全然違うから面白いですよねー。これぞ、さがす会活動の醍醐味であります。

なお、勘解由町の由来は、加賀藩士であった森川勘解由のお屋敷があったことによるものだそうで、勘解由殿町(かげどんまち)などとよばれたとのことでした。詳しくは、「市民が見つける金沢再発見の会」武野さんのすばらしいブログをご覧ください。とても勉強になる記事が盛りだくさんですよ!

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浅野川加賀友禅灯籠流し(上)
江戸時代からの岩根町(…で今は瓢箪町)(中)
江戸時代は勘解由町だった岩根町(…で今は瓢箪町)(下)
[参考文献:市民が見つける金沢再発見ホームページ]
[発見日:平成24年7月23日]

西堀川町

f:id:cho0808:20120303144838j:plain:left:h350【消滅した年】昭和40年(1965年)
【現在の町名】堀川町
【感想・雑記】此花校下の旧町名は、なんと平成25年(2013年)1月25日以来、5年半ぶりということです。そんな此花人待望の旧町名のわりには、現在の町名である「堀川町」に方角がくっついただけの、一見行政的無機質な印象もイナメナイ「西堀川町」のご紹介となります。しかも、スマホの地図アプリによれば、西堀川町は、鉄道の高架下に成仏しきれずに幽霊のごとく存在しているようなのです。

実は、金沢駅の高架下にはなぜか幽霊町名たちがたくさん眠っているのです。ウソだとお思いなら地図アプリで金沢駅周辺を確認してごらんなさい。ほうら、西堀川町のほかにも、日吉町、広岡町、折違町、柳町、梅沢町などなど、消滅したはずの町名がいくつも見つかるではありませんか。もちろん、いずれも住民はゼロです。それにしても、これらの幽霊町名たち、なぜ線路下にこんなにも残っているのでしょう。住居表示の際になにか手ちがいがあったりしたのでしょうか?オバケ嫌いのわたしとしては、生き返らせてあげるか、それが叶わぬならば、ひと思いに成仏させてあげたいと願わずにはいられません。
なお、かつての西堀川町は通りを中心に、背割り(町の境界が家の背中)になった典型的な両側町でしたが、いまは堀川町の一角となりました。ただ、その延長線上に1本だけ「西堀川」と書かれた電柱が、これまたなぜか残されておりましたとさ。

…と、ここまで書いたあと、念のため、図書館で最新の住宅地図を確認したところ、高架下に眠っているのは、「西堀川町」ではなく「淵上町」との記載が見つかりました。はたして何が正解なのでしょうか。まあ現れたり消えたり、そのへんも幽霊らしくていいんじゃないでしょうか。ま、そゆことで一応、西堀川町は、旧町名ってことでいいんですかね?いいですよね?そのへんで手を打ちましょう。ちなみに図書館の帰り道、久々に西堀川町を再訪したところ、この西堀川町の表札は残念ながら消滅しておりました。。。なむー。

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鉄道高架下の西堀川町(本当は淵上町?)(上)
西堀川町の通り(中)
電柱の「西堀川」の文字と奥に見える高架橋(下)
[参考文献:『金沢市住宅明細図 地籍版中央部 平成30年版中』刊広社(2018)]
[発見日:平成24年3月3日]